信田地区は水稲採種(種籾)圃場地として全国有数の生産地となっている。戦後、県農事試験場から水稲採種を委託されるほどの人物がいた。昭和二十八年、県特産課から兵庫県の採種委託をうけ、氷熊で水稲採種が始まった。全国的にも有数の採種場となる出発点であった。三十年大森・浅野地区に信田水稲採種組合が発足した。三十一年中組・小日向・松山加入。三十一年から兵庫県と種籾の移出栽培契約を結んだ。三十二年田野口下、三十三年本郷・境、三十八年山田・原市場、三十九年小田原、四十三年軽井沢、四十九年高野・灰原と、信田全域に契約栽培がひろがった。昭和五十九年度の実績をみると組合員数二四九戸、採種面積七九・五ヘクタール、調整総数量生産量は四二万七〇八八キログラム。総販売高一億八五六二万五〇〇〇円。
昭和四十一年には、全国初の種子共同施設(種子センター)が信田農協と富山県に設置された。この施設は信田方式といわれ、均一な精選と混種防止をおこない、包装が可能で、調整労働力が軽減された。兼業農家化が進行して、農業耕作者の老齢化と労働力不足の傾向となったので、四十三年には大型トラクター(四七馬力)・バインダー等の機械力を導入して、農協が請負作業の態勢を確立した。また乾燥施設として、中組地籍に鉄筋平屋建て一九四平方メートルを新設した。