昭和二十二年(一九四七)四月、学制改革による六三制の実施により、信田国民学校は、以前の名称にもどり、新たな信田村立小学校として出発した。同時に信田村立中学校を併設した。同二十四年四月信田中学校は更府中学校とともに組合立信更中学校となり、七月新設中学校へ引っ越した。同三十一年六月一日信田村と更府村が合併して信更村となり、村立信田小学校となった。同三十四年四月氷熊区が更府小学校の通学区となった。同四十一年十月十六日長野市と合併して長野市立信田小学校となった。昭和四十九年創立百周年記念式典を催し、『信田小学校百年誌』を発刊した。平成十一年四月高野分校を統合した。
昭和二十二年四月、学制改革の実施により、信田中学校、更府中学校が発足した。同二十四年四月両村組合立として統合された信更中学校が設置された。費用の分担割合は信田が六・二五、更府が三・七五であった。新校舎完成までは各小学校で授業がおこなわれた。同年六月六日新校舎開校落成式がおこなわれ七月七日に小学校から移転した。回三十一年六月村立信更中学校となり、同四十一年十月長野市立信更中学校となった。平成十年創立五十年記念式典を催し、『信更中学校創立五十周年記念誌』を発刊した。
昭和二十三年五月更級農業高等学校に定時制課程が新設され、中心校のほか八幡・上山田・下氷鉋・筑北の四分校が設置され、同年七月信更分校が設けられた。同三十四年三月信更分校は生徒数減少のため廃校となった。