上尾城跡

902 ~ 903

信更町上尾にある。平林氏五代(正直・正頼・正俊・正家・正恒)の居城跡である。上尾城は平城(ひらじろ)で犀川右岸の丘陵上にあり平地からの比高は約一〇〇メートル。更府小学校北東の山上に本郭(ほんくるわ)を残している。東が氷熊組に接するだけで、南と西と北の三方は崖や山地に囲まれ天然の要害となっている。

 本郭は五〇メートル×三〇メートルの不整四辺形で、その四辺に高さ二メートルの土塁をめぐらす。その北東の空堀をへだてた一段低地に東西三〇メートル、南北二五メートルの楕円形の控郭、さらにその北東に小さな出丸を設けている。この城跡から南西の一段低地には侍屋敷跡と思われる地割が残り(現更府小学校)、城下村落の形を示している。一般の山城は戦時の要塞城であるのにたいして、この上尾城は常に住む侍屋敷と戦時の要害城との両方を備えている点が珍しい。小規模であるが城下町の初期の形をとっているといえる。

 以下『日本城郭大系』八巻より引用する。「東信濃で栄えた滋野系望月氏の子孫布施氏は、布施荘地頭職を相伝し、応仁(おうにん)年間(一四六七~六九)、更級郡西山地方に勢力を伸ばし、山平林の上尾山上に居住して平林姓を名のり、左衛門尉(じょう)正直と称した。父は布施冠者直頼で、山布施城に住んでいた。若くして隠遁(いんとん)生活に入ったが、長子正直が若年のため、弟直長に家を継がせ、正直が成人の暁には家督を譲るよう決めた。しかし、正直および弟正頼(平林蔵人佑)が成人しても、家督は譲られず、山平林・有旅・安庭の地が与えられただけであったので、お家騒動となった。結果は、直長が敗れて出奔した。その頃、正直は上尾城、弟は有旅城にいたが、正直に子がないため、弟の正頼が上尾城に入って家を継いだ。そして、正頼の子孫は村上氏に属し、その後は武田方として忠勤を励んだ。正頼の孫正家は、武田信玄によって牧之島城の副将となり、永禄(えいろく)十二年(一五六九)の北条氏との戦いでは先鋒(せんぽう)として討死した。その子正恒も上尾城に居住していたが、武田勝頼の命令で牧之島城に移り住んだ(「平林文書」)。天正(てんしょう)十年(一五八二)、織田勢によって同城が攻められた。いったんは上尾城に退いたものの、牧之島を奪い返し、その後は上杉景勝に属した。文禄(ぶんろく)三年(一五九四)の『定納員数目録』によると、二百七十二石余の知行であるが、会津国替えでは二千石を給され、白河小峯城に移った(「上杉編年文書」)」。慶長(けいちょう)三年(一五九八)会津移封後、上尾城は廃城となった。桜井地籍には上尾城の出城として築城され、のろしをあげて合図をするのに絶好の火明城跡がある。


写真1 上尾城跡