二 寺院

907 ~ 909

 長勝寺 真言宗 三水 ①本尊 薬師如来 ②山号 秀秘山 ③由緒 寺伝によれば、弘法大師巡行のさいに草庵(そうあん)が創設され、応永年間(一三九四~一四二八)郷士大日方(おびなた)氏がそこに堂塔を建立し、本尊薬師如来を安置したことが初めとされている。天正(てんしょう)元年(一五七三)秀慶(しゅけい)が住持となり秀秘山蓮台(れんだい)院長勝寺と称し、隆盛をはかった。朱印寺領は一二石であった。弘化四年(一八四七)の大地震により本堂・庫裏等は倒壊し、安政四年(一八五七)容戒(ようかい)によって再建された。のち、平成八年に全面改築をした。

 仁王門には、鎌倉中期作とされる木像金剛力士立像(仁王像、昭和三十七年県宝)がある。仁王像は檜(ひのき)材一木造り、彩色像、ともに単髻(たんけい)。阿形(あぎょう)は左手上方で物を握る形をとり、右手は下方で五指を開く。腰を左にひねり右足を踏みだし、重心を左足に集めて立つ。吽(うん)形は左手を下げて物をもつ形で、右手を曲げて前方に出し、掌を前にして五指を伸ばし開く。腰を右にひねり、左足を踏みだし重心を右足に置いて立つ。像高は阿形一九四・五センチメートル、吽形一九七・二センチメートル。金剛力士像としては比較的小型。檜材一木彫成、瞋目(しんもく)彫眼で力強い体躯(たいく)に特徴があり、動勢も少なく衣文(えもん)も複雑をさけて剛健な作風を示し、県内鎌倉時代仁王像の佳作とされている。

 長勝寺は「三水の仁王様」の寺とよばれ、四月の「初丑(はつうし)」の日は縁日で、戦前まで境内にかなりの露店商が並び参詣人でにぎわった。現在は四月の第一日曜日を祭日とし、県内外の参拝者が多く、伝統行事となっている。

 観音寺 曹洞宗 山平林下平 ①本尊 十一面観音 ②山号 年玉山 ③由緒 この地の豪族布施氏は山平林の年玉(としたま)地籍に創建し年玉山観音堂と称した。長禄(ちょうろく)元年(一四五七)正直の代に、犀川対岸の大安寺第四世林岳(りんがく)が観音堂を修復し観音寺と称し、大安寺末寺となり、のち延享(えんきょう)五年(一七四八)松代町大林寺末となった。

 観音寺の木造十一面観音菩薩立像は、国の重要文化財に指定されている。像高一五三・九センチメートル。像はけやき材一木造りで、肉身金箔(きんぱく)ぬり、肩から胴・腰・すそを通じてほとんど同じ太さに刻み、衣文や裳(も)の折り返しなどおだやかにまとめた立像である。貞観(じょうがん)様式から藤原様式へと作風が移行する過渡期の典型的な木彫成像の特色を示している。正面中央にあらわれた渦文や衣文には翻波(ほんぱ)式がはっきりあらわれている。この観音像は観音寺の創始とはまったく年代のかけ離れた、藤原時代前期から中期ころにかけて彫造されたもので、県内最古の木造彫刻の西条(松代町)清水寺の諸像につぐ古像である。

 福泉寺 曹洞宗 涌池 ①本尊 聖観音 ②山号 大溪山 ③由緒 延宝(えんぽう)四年(一六七六)大明が観音堂を建立し、聖観音を本尊として開山した。のち、宝暦七年(一七五七)安庭の真龍寺末寺となり大溪山福泉寺と号し曹洞宗となる。弘化四年の善光寺大地震の土砂で寺宇は崩壊した。真龍寺住職は法弟雄志(ゆうし)をその復興にあたらせ、村民の協力を得て、下方の現在地へ嘉永年間(一八四八~五四)に再建し第四世中興開山となった。

 真龍寺 曹洞宗 安庭 ①本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) ②山号 大洞山 ③由緒 寺伝によると、応永七年(一四〇〇)宗祖承陽(じょうよう)大師(道元)第八世の法孫天誾(てんぎん)が行化(ぎょうけ)(修行と教化)のさい、この地に草創して真龍寺と号し常住したが、のち、荒廃無住となり衰退した。その後、当地の郡司布施忠直が中興開基となり、寺領一二石を寄進し、一鴒(れい)を住職とした。天正(てんしょう)年間(一五七三~九二)に龍洞(りゅうとう)院(現更埴市稲荷山)第七世の雲谷(うんこく)を迎えて堂宇を再建し開山と定めた。弘化四年の善光寺地震で壊滅したが、文政三年(一八二〇)造営の宝蔵だけ残った。嘉永三年(一八五〇)に再建した。慶長(けいちょう)二年(一五九七)江戸幕府によって、布施平林家の寄進地はそのまま朱印地となった。裏山の山林は寺有地として明治維新まで諸役を免除された。平成五年(一九九三)屋根を主体とした大改修をおこなった。

 明治末年、善光寺仁王門に置かれていた「露座の仁王像」は本寺に移されている。

 光明寺跡 真言宗 吉原 ①本尊 大日如来(だいにちにょらい) ②山号 医王山 信更町赤田の専照寺末寺 ③由緒 明治六年牧田中村ほか一四ヵ村で開校した進徳学校吉原支校を光明寺に置いた。

 竜泉寺跡 三水字二軒屋にあった寺。本尊阿弥陀如来(あみだにょらい)(善光寺三尊仏)は、三水から山形県米沢市大町に移った竜泉寺に安置されている。三水区有文書の文政八年に「りゅうせんじ」、文政七年の「堂宮絵図面御書上帳」に「二軒屋組 竜泉寺 地蔵堂」とある。