一 村のようす

910 ~ 911

 更府地区は江戸時代、松代領であった。慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の『川中島四郡検地打立之帳』に、吉原村一四六石余、三水村一九一石余、山平林村三五七石余、安庭村一九〇石余とある。寛文(かんぶん)元年(一六六一)の「家中分限帳」によれば、更府村には小野喜平太など一三人の藩士の知行地があった。安庭村六人・吉原村四人・今泉村二人・三水村一人であった。

 慶応四年(一八六八)の「家数等改帳」では吉原村一一〇軒・五一六人、三水村六八軒・三四四人、山平林村一二〇軒・五五四人、安庭村六九軒・三五六人、合計三六七軒・一七七〇人であった。村には名主・組頭・長百姓の三役が置かれていた。村役人は、藩からくる御触(おふれ)・御達しや、村でつくった村定(むらさだめ)の趣意に沿って村を管理運営し、年貢の納入や、村人夫の割り付けから、争い事の解決など、すべて最終責任を負わされていた。村役人は藩定・触書・村定・水帳・村絵図一人詰改帳(戸籍)を重要書類として保管していた。

 弘化(こうか)四年(一八四七)孫瀬・岩倉両組(涌池地区)の村方三役は、大震災後に開発をすすめた屋敷田畑が残らず紛乱していて困るからと、立札改めを願いでている。元治(げんじ)元年(一八六四)孫瀬・岩倉両組は藩に願って、隣村地の境を双方村役人が立ち会い、見分改めをおこなった。その結果「絵図面墨引きのとおり相違なかった」と藩に届けている。この見分改めのとき、山平林村の名主・組頭・長百姓が案内して、入有旅村の名主・組頭、水内村の名主・組頭、安庭村の真龍寺が立ち会っている(「孫瀬組岩倉組建札改絵図面」涌池柳沢家文書)。


写真5 更府小学校玄関前にある大正13年制定の更府村歌 (上尾)