天明(てんめい)三年(一七八三)七月六日浅間山は大爆発を起こし、天明の飢饉がはじまった。六〇日ほどの雨天と冷気で、山中村々の田畑は不作、翌四年も不作つづきで困窮したが、藩では去年の年貢の猶予分と遅滞している拝借金の元利を、本年分とともに十一月十五日までに完済するよう命じた。これにたいして困惑した山中村々は、農民の難渋をかえりみずに酒造増をしている酒屋たちからの借用金を上納金にあてることにきめた。十一月十二日、念仏寺村城(じょう)の平(上水内郡中条村)に、鬼無里・日影(上水内郡鬼無里村)を除く二一ヵ村の農民が集まり、一揆(いっき)勢は十三日八ッ時(午前二時ごろ)出発し、中条村の酒屋から借用証文を取り、新町村・穂刈村の酒屋からも借用証文を取った。三水村へさしかかったところで、藩の職方同心が待っていたが、一揆勢の勢いに恐れをなして引きあげた。赤田村の酒屋久五郎は、「この屋敷は狭いので、大量の薪のある村上の芝原で寒夜をしのがれたい」と案内した。一揆勢一万五千人余が宿泊した(『信州新町史』)。十四日朝酒屋久五郎からも証文を受けとり、明け六ッ時(午前六時ごろ)にたち、二ッ柳村に着いた。ここの幸右衛門宅へ、藩役人が出張して仮役所が設置され、代官三人との直接交渉は二日間にわたった。要求事項はおおかた認められて、証文を受けとり、十五日に一揆勢は退散した。
藩当局は、金納相場を下げ、天明三、四年の取りのべ分や拝借金利子の返納を猶予し、五年暮れには猶予分を元金に繰りいれ、二〇年賦返済とした。
そのいっぽうで天明五年二月、藩は一揆勢の逮捕にのりだし、一三ヵ村の二一人が吟味もなく入牢(じゅろう)を命じられた(「天明卯辰日記控」氷ノ田内山家文書)。