明治三年(一八七〇)十一月の松代騒動では、更府村は一揆勢の通り道となったため村内の警備にあたった。山平林村の桜井地籍へは、安庭村・山平林村両村の人たちが出張って焚き火をし、警戒にあたっていた。そのとき一揆のものが桜井へんを騒ぎたて、松明(たいまつ)をつけて行ったので、桜井村の馬喰(ばくろう)が行って諭すと一揆のものは引き返していった。また、篠ノ井の方へ押し出したものたちが、「山平林に押しこみ、打ち壊しに来る」というので手伝いに行って賄い炊き出しの用意をしていたが、一人も来ないで済んだ。ところが、二十六日の夜、新町で乱暴をはたらいて、田野口へ押し下る一揆のものに吉原村橋場の商家が焼き払われた。当地区は、山中の一揆のものたちが往来する道筋にもあたっていたのでなにかと物騒であった(『北信郷土叢書』)。