弘化四年(一八四七)の大地震で、涌池は陥没して池になった。面積三三三八平方メートル、長軸二三五メートル、最大深度一〇・八メートルある。池底の湧水(ゆうすい)から湖水となった。護岸工事をし田九町歩を開き灌漑している。涌池の漏水止めに粘土で突き固めたときもあった。昭和二十四年(一九四九)に、桜井地区前沢川に水源を求め四キロメートルの距離を素焼土管でつなぎ冬期間水をもらっていた。同五十四年に、樋の入れかえと護岸工事が竣工(しゅんこう)した。
涌池の田用水は涌池用水組合が管理運営し、普請人足・水番人足・雑費額を坪数に応じて割りつけている。「明治九年涌池掛田方坪数取調帳」(涌池柳沢家文書)によると、組合員五〇人、総坪数二万五六七一坪、水番期間は六月二十一日から九月三日まで、水番は毎日二人で、他の人は手を出せない。期間中に水番の一番多かった人たちは八日間であった。大雨で土砂が流出しても水田に入らないようにと、砂留めの共有地が設けられている。これらの管理も役員によって現在までつづいている。