平三水の北畑地籍は昭和三十五年まで桑園だったが、戦後の食糧不足克服のため、犀川揚水により三ヘクタール余の水田に転換した。ところが、同五十八年の冬、揚水地点から数百メートル下流の両岸に県の護岸工事のじゃかごが積まれ、河床は一メートル余さがったので、県の助成による水取り入れ口の改善工事をした。
安庭村では幕末に水路水田開発の藩許を得、金八三両一〇匁の資金を授かった。山平林滝沢地籍から上樋水路約八〇〇メートルを開発して村の中央へ引水した。もう一線の下樋水路も開発して、川崎沖へ導水し、新田三ヘクタールを開田した。犀川の怒濤(どとう)が岸壁をかむ壁面の難工事で東北出身の一人がその犠牲となった。
安庭地区の揚水開田事業は、昭和三十四年に竣工した。受益者三〇余人、開田七・八ヘクタール、水路延長二〇〇〇メートル。同二十八年東京電力が笹平グム建設のさいに、犀川から揚水して畑地を水田化する企画に同意を得て実現した。当地区は既設水田と合わせて一三・八ヘクタールになった。