弘化四年(一八四七)三月、大地震の直後に、涌池(孫瀬・岩倉区)の人たちは隣村に頼んで移住した。遠くの親戚より近くに住んでいたほうが、田畑の手入れが多くできたからである。五月には、「開発のできる場所」を藩に見分してもらい、災害復旧に取り組んだ。嘉永二年(一八四九)には、堀割溜池(涌池)普請をした。その後開発をつづけ、安政六年(一八五九)に、二〇俵増の三〇俵上納、文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)に、五〇俵上納している。同四年には、屋敷・田畑が残らず紛乱していて困るから絵地図と立札を整えて、書類と現地が一致するように、立札改めをおこなった(「柳沢家文書」)。災害から力強く復旧してきているが、「明治二十年荒地免租願(涌池分)」によると、まだ小面積の荒畑が数多く残り、開発の難しさがわかる。