更府地区は明治七年(一八七四)に田畑面積三三一ヘクタールであった。そのうちの七六・八パーセントが畑であった。農産物で売るものは、わずかに大豆・楮皮(ちょひ)・繭・鶏卵などであった。三水・安庭は農閑に薪(たきぎ)をとり、山平林は農閑に行商をした。吉原は薪炭(しんたん)に恵まれ、農閑に商い・薪取り・賃馬稼ぎをした。
更府地区の米は明治十五年の七五六石から、明治三十四年には二・二倍の一六八六石に増えた。昭和二十七年(一九五二)には乳牛・綿羊・山羊(やぎ)が多く飼われていた。三水村の寛文(かんぶん)四年(一六六四)の漆(うるし)運上高は六・七五石で松代領内一位であった。漆の実から蝋燭(ろうそく)をつくることができる。