明治四十三年、更府地区の養蚕農家は二九七戸、繭生産量は一一七二貫(『更級郡統計書』)、大正十四年(一九二五)養蚕農家三二九戸、二万七二四八貫となり、昭和五年には三五八戸、三万四九一八貫となった(『県史近代』統計(二))。この年三月糸値が下がり、繭価は一貫三円と暴落して農村恐慌が始まった。そのため産繭量(さんけんりょう)は低下したが、この地区では養蚕以上に有利な農産物がないため、養蚕は農業経営に欠くことのできないものであった。戦後も養蚕は農業の中心で、昭和三十五年には養蚕農家は三五〇戸(『養蚕業統計』)であった。しかし、五十年代に入ると中国産の生糸に押され繭価は低迷し、農家の高年齢化から養蚕は衰退の一途をたどり、平成七年(一九九五)には、養蚕農家は二〇戸(『市統計書』)となり、荒廃桑園も各所に見られるようになった。