信濃久米路(くめじ)橋は安藤広重が『諸国六十八景』。に選んだほどで、更埴地方から信州新町をへて糸魚川街道に出る山道の最短距離上にあり、はやくから利用されていたものと思われる。久米路橋はいく度かけかえても、峡流と堅固な岩盤の同じ場所が選ばれている。吉原側に不動滝、対岸の公園には佐久間象山手植えの松、勝海舟揮毫(きごう)の石碑等がある。この景勝の地に多くの文人墨客が訪れている。
久米路橋をかけた最古の史料として、慶長十六年(一六一一)犀川に久米路橋をかけるために、寄付を募った「信濃国水内曲橋勧進(かんじん)帳」がある。このほか明和三年(一七六六)の丸子町伝五郎の「水内御橋新規掛替入用控」があり、これも曲がり橋だった。嘉永二年(一八四九)は刺橋(直橋)につくりかえられた。これは弘化四年(一八四七)大地震の山崩れで、犀川が湛水し、橋が浮上流失したために、翌嘉永元年に着工、二年に落成したものである。その後、川の左岸にある水内村橋場口留(くちどめ)番所の番人が、往来の見分、橋の管理と見張りをし、七年に一度は改修がおこなわれた。明治二十四年(一八九一)に県工事で、二重刺橋がかけられ、その後は県によって、同三十四年枠橋、同四十一年釣橋、大正七年(一九一八)釣橋と工事がおこなわれた。大正七年の工事中に吉原区に火災が発生し、水内・上条の消防が渡船で消火に向かう中途で舟が転覆して消防手一〇人が死亡した。昭和八年(一九三三)鉄筋コンクリートの永久橋がかけられた。