交通機関の発達

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国道(犀川線)が開通する前は、犀川通船が営業していた。犀川通船は天保(てんぽう)三年(一八三二)に松本-新町間の許可をうけて始まった。弘化四年に矢太郎滝が消滅したあと三水にも船着場があった。松本・明科方面の物資が降ろされ、稲荷山や善光寺方面へ運ばれた。明治二十五年二月の『信毎』に載った犀川通船会社の「犀川時間船開業広告」によると、「毎日午前六時に松本を出発し、正午に三水に到着」とある。また、三水には筏(いかだ)で下した丸太を犀川からあげる土場が平水内橋の上の方にあり、三水の四ッ屋に材木屋があった。大正五年、久米路橋を通って、新町-稲荷山間に乗合馬車が開通したが、数年で廃止された。更府村桜井の宇都宮信衛は明治三十二年、長野市淀ヶ橋から須坂・中野・森宮野原等へ乗合馬車の路線を開いていた。大正十四年に川中島自動車(株)を設立した。同十五年五月川中島-篠ノ井駅-塩崎-上石川-田野口-新町間、稲荷山駅-鳥坂峠-田野口-新町間に乗合自動車が運行されるようになり、昭和七年安庭-新町間、同九年笹平-安庭-里穂刈-日原間と開通した。