善光寺大地震

921 ~ 923

岩倉山(虚空蔵山)は標高七六四メートル、安山岩で上部は礫(れき)岩をふくんでいる。弘化四年(一八四七)三月二十四日の善光寺大地震では、岩倉山の崩落は最大のものであった。山は、南西の部分が峰から馬蹄(ばてい)形に崩れて、岩倉・孫瀬の二集落三八戸もろとも押し下し、犀川をせきとめ八一人の死者が出た。このうち二戸一二人は家もろとも大きい亀裂の底に埋没した。その裂穴に湧水し湛水(たんすい)したのが涌池である。また北西の山腹も崩れ落ちて、古宿集落一四戸をかすめ、藤倉集落とともに犀川に達し、三一人の犠牲者が出た。犀川がせきとめられた結果、上流二一ヵ村を水没させた。二〇日間の湛水ののち四月十三日に、せきとめた箇所が崩落した。その大泥流は川中島二一ヵ村を流し、千曲川沿いに越後国まで被害をあたえた(『むしくら日記』)。


写真9 虚空蔵山(岩倉山)が抜け崩れて犀川をせきとめた

 弘化四年のとき、涌井神社と集落が同じくらいの高さにあったが、集落全体が下がった。涌池地籍に柿の木が二本あって、そのうちの一本は対岸の水内村花倉まで流れ着いて育った。犀川の湛水は現在花倉にある農産物荷置き場床土のところまで浸した。

 古老の話によると、「善光寺大地震で虚空蔵山は安庭へ七分、藤倉へ三分抜け落ちた。藤倉集落は、現在の集落より上の段、富山というところにあって、集落全部が埋没、そのときいた集落民全員全滅の惨事となり、子守り奉公などで他出していた幼い娘たちにより血筋をつないだ」という(館報『しんこう』)。

 三水では今の公民館のところまで水がつき、低地では一軒をのぞいて全戸が流失した。その一軒は裏の柿の木に細引きで柱をつないで屋根の部分の縄を切って逃げたので、流失を免れた。吉原村では、居家八一軒が倒壊し、そのうち二軒が流失した。ほかに水車屋が四ヵ所倒壊した。光明寺も全壊した。死者は二七人出た。三水今泉村では、居家三〇軒が倒壊し、寺堂は三ヵ所倒壊した。また浸水家屋は一三軒、死者が一人あった。山平林村では、六四軒が崩壊埋没し、水車屋二棟も倒壊した。斃馬(へいば)一七匹は押し埋まった。松代藩では罹災者救済のため玄米・鶏卵・塩・砂糖・味噌(みそ)・大豆、鍋(なべ)・釜(かま)の救援物質をおくった(「御救方御用日記」国立史料館蔵)。

 三月二十六日には久米路橋が水に浮いた。山平林村では二七人が有旅村へ転居した。三水村では住居が水中になり野山の小屋などに避難した。今泉村は灰原へ転居した(「大地震大変覚」小林唯蔵)。三水今泉村では大半が浸水流亡した。須牧村は全部浸水した。同村橋場組は浸水流失した。氷熊村平組では五戸流失した(『更級郡誌』)。

 今も、善光寺大地震の起きた三月二十四日には、涌池の福泉寺で「一時千巻」のお経をあげ、涌池の人たちみんなで、地震祭りをおこない、犠牲者の供養をしている。

 涌池地籍大門沖の柳沢伝右衛門筆塚南側と桜井地籍交差点の郵便ポスト西側に、馬頭観世音碑が各一基ある。たまたま報告書に見えないが、弘化四年三月二十四日の銘があり、地域の人びとと苦楽をともにし農耕に励んでくれた愛馬を家族として悼み冥福を祈って建てた。


写真10 石造馬頭観世音 弘化四未年三月二十四日と刻んである