明治以後の災害

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明治三十八年(一九〇五)五月三十日の『信毎』は、「過日涌池区で地滑りがあり、田畑墜落反別四ヘクタール余、見積総額は一万円以上になった。なお、同地に目下長さ数百メートル、幅一・八メートル余の亀裂が生じた」と報じている。

 また翌三十九年八月十一日、岩倉山で崩壊があった。涌池宇岩倉地籍が数ヘクタール抜け落ちて、犀川の水をおおよそ六メートルたたえたが、約一時間たって減水したので、上流沿岸の新町は被害がなかった。

 昭和五年(一九三〇)十二月五日、涌池地籍の下の大崩れがあり、犀川をせきとめた。同九年九月二十一日、室戸(むろと)台風の折りは涌池下から湯の入地籍一帯が大崩落にみまわれた。昭和三十九年七月の大雨つづきの折り、犀川を三時間ほどせきとめる崩落があった(「日記」三水新井家)。

 昭和六十年には虚空蔵山中腹に深さ一から一・五メートルの大亀裂が一五〇メートルにわたって発生した。涌池地籍の人たちの話によると、その後、二ヵ年間水抜きの大工事がおこなわれた。亀裂の場所は涌井神社と涌池の中間地点であり、大亀裂と涌池のあいだの数軒は、移転準備までした。

 平成六年(一九九四)二月十四日、涌池虚空蔵山(五輪林沖)の地滑りがあり、長さ一五〇メートル、幅一五〇メートル、深さ五メートルから一〇メートル、三万五〇〇〇立方メートルの土砂が崩落した。農林・水道施設に被害が出た。危険が予想される五世帯に避難勧告が出された。地滑りの初期については、二月十四日一七時五〇分ごろと、一八時一〇分ごろの二回、涌池の住民の一人が異様な地鳴りを聞いた。外へ出て北側の山を見たところ、土砂崩落が始まっており、区長から市消防局へ急報があった(「涌池虚空蔵山地滑り記録」長野市消防局)。

 そのほか、昭和四十八年六月末から五十余日間、「五〇年ぶり」といわれる大干ばつがあった。信更の農作物被害は一億数千万円。溜池の灌漑用水の残量が、小山田池あと七日、大花見(げみ)池あと五日、涌池あと三日となり、他の池は零日とからっぽになった。

 交通事故は、昭和六十年一月二十八日、信更町下平地籍の国道一九号大安寺橋で三重交通のスキーバスが犀川へ転落し、日本福祉大学生等二五人の死亡事故となった。慰霊碑が建立された。