更府地区の寺子屋教育は幕末から明治初期にかけてさかんであった。二一人の寺子屋師匠がいて、身分は農民・神官・僧侶などである。そのうち、農民師匠が一五人(七一パーセント)で、寺子屋師匠の主流になっている。
更府で一番早く寺子屋師匠を始めたのは涌池の柳沢家であった。柳沢家は代々名主をつとめ、歴代伝右衛門を襲名した。五代伝右衛門の元禄時代から明治初年の九代まで一五〇年間読み書きを教えた。
三水村の神官竹田家は壱岐(いき)・権頭(ごんのかみ)・相楽(さがら)・重彦の四代にわたって、寺子屋の師匠であった。門人は氷熊村・氷ノ田村・山平林村・田野口村・信里村・川柳村にわたり五百余名にものぼった。門弟中安庭の農民塚田嘉蔵、高野村の農民児島義雄などはその後寺子屋師匠となった。
このほかにも農民で、吉原の内山清右衛門・大内発作・竹越永泉・内山藤左衛門、古宿の小山曽左衛門、安庭の柳沢市郎、三水の高野善兵衛、桜井の中沢伴九郎、今泉の高野惣右衛門(職業無記録)なども寺子屋師匠をした。内山藤左衛門は『独算術秘伝』を書いた。
三水村長勝寺の住職富田栄賜も寺子屋師匠をした(『更級郡埴科郡人名辞書』『更埴教育会百年誌』)。