更府村の俳壇は、文化・文政期(一八〇四~三〇)の長嘯(ちょうしょう)をはじめ、二〇数人の俳人が『長野県俳人名大辞典』に載るほどさかんであった。更府の俳人たちは、松代町の倉田葛三(かっさん)、戸倉の宮本虎杖(こじょう)、善光寺町の宮沢武曰(ぶえつ)、氷熊の信月庵三世青木梼富(どうふ)、そして一茶などの影響をうけた。
更府村俳壇の先駆者には化政期に活躍した田司(でんし)・保尺(ほしゃく)・個丈(こじょう)・美山(びざん)(安庭)、長嘯・素毛(そもう)・台原(たいげん)(吉原)、松柏(しょうはく)・秀草(しゅうそう)・智白(ちはく)・松露(しょうろ)(山平林)らがいた。文政期の更府俳壇は活況を呈し、松柏・秀草の句は『虫・秋風』(文化十年刊)に、松柏・田司・保尺の句は『豆から日記』葛三編(文化十二年刊)に、台原の句は『なりかや』八朗(虎杖の子)編の加舎白雄(かやしらお)追善集(文化十四年)に、松柏・保尺・秀草・個丈・美山の句は『雁の使』八朗・武曰判(文政七年刊)に載った。また、秀草・智白・松露の句は『夜半のかはず』蕉水(しょうすい)ほか編(文政十年刊)に載った。長嘯(吉原)は加舎白雄に私淑した。また、一茶と親交があり『七番日記』等にその名が散見する。『野尻の秋風』(文化八年成)、俳文には「吉原の譜」「佐野日記」(ともに『善光寺道名所図会(ずえ)』に収録)がある。幕末期の俳人には照月(しょうげつ)・輝月(きげつ)・寿雪(じゅせつ)・楠翠(なんすい)(今泉)、花英(かえい)(三水)がいた。
明治期に入ると更府俳壇は充実期を迎えた。明治期のなかで露月(ろげつ)(安庭)だけが「明治旧派」に属した。花月(かげつ)(山平林)の句は『梅友集』笠井若老(じゃくろう)編(明治十五年刊)に、一寿(いちじゅ)・寿博(じゅはく)(三水)、露月・月花(げっか)(安庭)の句は『万寿美草(ますみそう)』梼富編(明治十七年刊)に載った。ほかに雪江(せっこう)(吉原)、雪耕(せっこう)(更府の人)がいた。明治から昭和には俳画もよくする空山人(くうさんじん)(吉原)、和歌もよくする臥竜(がりゅう)(吉原)がいた(『長野県俳人名大辞典』)。