格物学校(信田)山平林支校

927 ~ 928

明治五年(一八七二)八月、政府は学制を発布し、近代的な教育改革、国民皆学の方針を明らかにした。同六年十二月田野口村ほか八ヵ村は田野口密蔵寺に格物学校を開校し、氷ノ田に一番支校、三水に二番支校、山平林に三番支校、安庭に四番支校を置いた。吉原村は同六年牧田中村ほか一四ヵ村で開校の進徳学校吉原支校を光明寺に置いた。同七年三月桜井・宮平・下平区は山布施の励衆学校へ通学した。同九年信里の入有旅村に属していた桜井地区が山平林村に入った。

 同十年格物学校の四支校は合併して独立し、上尾に四維学校を創設、五月開校した(浅野・氷熊・今泉・三水・桜井・上尾・涌池・安庭・古藤区通学)。同十一年七月桜井区の七戸は信里山布施村励衆学校へ分離通学した。同十五年七月光明寺を仮校舎としていた進徳学校吉原支校は独立し、吉原小学校となった。同十八年下平の観音寺を仮校舎として四維学校の分校下平派出所が設置された(下平・古藤通学)。同十九年四維学校は山平林学校となり、吉原学校は山平林学校吉原支校となった。同年宮平桜井区(七戸)の児童は山布施の励衆学校から離れて、桜井は上尾の本校へ、宮平は下平へ通学した。氷熊・浅野区児童は田野口学校へ通学した。同二十年地域の事情により尋常科四年制にかわるものとして簡易科三年制が認められ、本校は簡易科の道を選び四月から実施した。