更府地区の日清戦争後太平洋戦争にいたる戦死者は一〇六人であった(忠魂碑)。多くの人びとが戦争の悲惨さを体験した。山平林の中平地籍は昭和二十二年(一九四七)春から開墾入植し新しくできた村である。当時役場の開拓事業に応募した涌池五世帯・安庭二世帯が入植、飲用水にも苦労した。夫は大木を倒し石を除き妻は子を背に開墾に励んだ。ランプ生活から同三十年にようやく電気がついた。
終戦直後の開村
更府地区の日清戦争後太平洋戦争にいたる戦死者は一〇六人であった(忠魂碑)。多くの人びとが戦争の悲惨さを体験した。山平林の中平地籍は昭和二十二年(一九四七)春から開墾入植し新しくできた村である。当時役場の開拓事業に応募した涌池五世帯・安庭二世帯が入植、飲用水にも苦労した。夫は大木を倒し石を除き妻は子を背に開墾に励んだ。ランプ生活から同三十年にようやく電気がついた。