農地改革は太平洋戦争後の日本経済、社会に大きな変化をあたえ、農村の民主化を促進した。農地改革実施以前、小作料は更府村で一〇アールあたり籾(もみ)四俵が標準で、これは収穫量のおよそ半分にあたっていた。稲の刈り方は、小作料用と自家用とを分けて刈った。はじめの一うねは小作料分に刈りとり、つぎの一うねは自家用分に、一うねずつ交互に刈り分けていた。小作農民は、過重な小作料負担に苦しんでおり、そのうえ、地主に従属する地位に置かれていた。昭和二十一年自作農創設特別措置法と農地調整法の改正法が成立し、農地改革はこの二つの法律を柱としてすすめられた。
昭和四年更府村の総耕地は三八六ヘクタール余、このうち小作地は一〇〇ヘクタール余で、全耕地の二・六割を占めていた(『県史近代』統計(一))。その後、農地調整法や、戦中・戦後の食糧増産の国策などもあって小作地は微減した。農地解放が施行された昭和二十二年、更府村では、全耕地三五八ヘクタール余の二六パーセント、九四ヘクタール余が小作地であった。また、農家総数四二七戸のうち、自作農一五八戸、小作農五九戸、残りが自小作農、小自作農となっている(昭和二十三年『県統計書』)。農地解放では四七ヘクタールほどの農地が開放された。農地改革が一段落した昭和二十四年には、全耕地三七四ヘクタール余のうち、三二七ヘクタール余が自作地となった。これは全耕地の八七パーセントにあたる。また、翌二十五年には、農家四三三戸のうち、自作農二四三戸、自小作農一四三戸、小自作農三二戸となり、小作農は三パーセントの一万戸となった(数値は『わたくしたちの郷土さらしな』)。