現在の私たちの豊かな生活は突然生まれたものではない。何百年、何千年という時間のなかで、多くの人たちが努力を積み重ねてきた結果である。どの時代においても、人びとはよりよい生活を求めてきた。そうした過去の人びとの思いのうえに、私たちは今生きている。したがって、過去の生活のありさまを知ることができれば、現在の私たちの生活の成り立ちと、今に生きる意味とを理解することができるはずである。
平成十年(一九九八)二月に長野市で開催された冬季オリンピックやパラリンピックも、その実現までには長い時間と多くの人びとの努力と思いとがあったことは、記憶に新しい。これもまた一つの歴史の結果であった。
歴史を彩る人びとはさまざまである。県歌「信濃の国」には「朝日将軍義仲も 仁科五郎信盛も 春台太宰(だざい)先生も 象山佐久間先生も」と歌われているが、このような人びとは英雄偉人である。政治・経済・文化の指導者・先覚者として一世に名前をとどろかし、歴史にその名を刻んでいる。
しかし、私たちの現在にいたる生活は、そのような特別な人びとによって支えられているだけではない。歴史に名を残しはしないけれど、家族を愛し、友を思い、仕事に励み、その日その日を誠実に生きてきた多くの人びとの存在があった。たとえばオリンピックの聖火も、多くの聖火ランナーと、さらに多くの伴走者の存在があって、はじめて長野に到着することができたのと同じである。
歴史は、英雄偉人のものばかりではない。名もない人びとの、平凡な時間の積み重ねの上に築かれた歴史もある。現在のわれわれの生活の歴史を考えようとするならば、こうした二つの歴史の存在を忘れることはできない。