長野市という行政的な地域を単位とする民俗学研究は、この『長野市誌 民俗編』の編さん以前におこなわれたことはない。ただ、この地域における民間伝承を個人的に調査し、報告することは明治時代にもあった。しかし、本格的な報告がおこなわれるようになったのは、大正二年(一九一三)に柳田国男を中心とする雑誌『郷土研究』が刊行された以降であり、高島冠嶺(かんれい)(直一郎)や栗岩英治などが報告を寄せた。
大正期には長野県内にも『信濃研究』などの雑誌が刊行されていたが、ほとんど長野市域の民俗に関する報告はみられず、昭和五年(一九三〇)に『郷土』が刊行されることによって、ようやく本格的な調査がおこなわれ、その結果が報告されることになった。安間清・小池直太郎などが長野市域の民俗についての報告を寄せている。また、長野師範にいた小池直太郎は『信濃教育』に「鳶(とび)初について」をはじめとして一八編の報告論考を寄せている。しかし、やはり長野市域を対象とした地元研究者の報告や研究は多いとはいえない。
戦後になると長野市を中心とする長野郷土史研究会が結成され、機関誌『長野』が刊行されると、にわかに民俗関係の報告は増加する。善光寺関係の記事や、各地域の年中行事や民間信仰に関する資料が、会員の手によって報告されるようになった。また、昭和四十六年には全県組織の長野県民俗の会が設立され、翌昭和四十七年には長野県史刊行会内に『長野県史 民俗編』にかかわる委員会が設置された。昭和五十年には『長野県史 民俗編』編さんのための民俗資料調査が開始され、まず北信地区を対象として明治二十二年段階の町村を単位として調査がおこなわれた。長野市域においても四三集落が調査の対象として選定され、五五五項目にわたる調査がおこなわれた。共通項目による集団調査ではあったが、これだけ大規模な調査がおこなわれたのは初めてであった。
長野県民俗の会では機関紙(誌)『長野県民俗の会通信』『長野県民俗の会会報』を刊行し、昭和五十二年には茂菅(もすげ)において有志会員が共同調査を実施した。これを契機として長野市域のさまざまな資料報告や研究が発表されるようになり、都市の民俗や民俗の変容に関する論考は全国的にみても早い時期のものであった。安室知は農業のあり方を問いなおそうとし、その「水界をめぐる稲作民の生活-稲作民による漁撈(ぎょろう)活動の意味-」(『信濃』三九-一)は、昭和六十三年度の日本民俗学会奨励賞を受けている。宮下健司は民間伝承を研究するだけではなく、地域の民俗行事に深くかかわり、小正月行事や農耕儀礼などについて精力的な調査研究活動をおこなうとともに、地域における行事の意味や価値を地域の人びととともに考え、活性化していった。長野市立博物館の活動も本格化し、平成七年(一九九五)には総合的な民俗調査報告書『犬石の民俗』を刊行している。
『長野県史 民俗編』の刊行は、平成三年をもって終了し、長野市域の民俗の全県的な位置づけはほぼ可能になった。しかし『長野県史 民俗編』はあくまでも県的なレベルで民俗をとらえようとするものであった。より地域に密着したところで考える課題は今後に残されている。