日々の暮らしは、ホンヤとかオモヤとかとよばれる母屋(おもや)を中心にして営まれ、早朝から朝食と野良(のら)仕事の準備が繰りひろげられていた。男性の野良仕事着は古くなった着物を流用し、裾(すそ)をはしょって動きやすくした。単衣(ひとえ)または袷(あわせ)が多く、水田の仕事のときにはハンモモヒキをはいた。女性は着物と腰巻きを着て、脚(あし)のすねにハバキをつけ、前掛けをしていた。日よけと雨をしのぐためにはスゲガサをかぶった。
日常生活に使う居間は茶の間とよばれ、野良から帰って履物(はきもの)などはそのままで、土間から上がっていろりのまわりでだんらんしながら過ごすこともあった。昭和初期までは米に麦・雑穀や野菜を混ぜたものを食べており、野生の植物の利用方法も豊富に伝えられている。茶の間の隣に冠婚葬祭(かんこんそうさい)に使う座敷とかデイとかとよぶ部屋があり、ふだんは使わずに締めきってあったものである。屋根葺(やねふ)きは、越後から来た職人や、村に住みついたそうした人に依頼したのであったが、草葺きの屋根はこんにちでは急速に姿を消している。
かつての民家は土間に入ると暗く、建材、味噌(みそ)などの自家製の調味料、いろりや竈(かまど)の焚(た)き物によるものなどさまざまなにおいが充満し、それらが混ざりあったにおいが懐かしく思いだされる。終戦後に生活改善運動によって、まず火を使う場所が改良されはじめた。庭は農作業の場でもあり、四季折々の自家消費用の食料を確保する野菜畑も屋敷のなかに作られていた。道具類を収納した物置でも作業をし、ここと便所は別棟(べつむね)として建ててあったものが多い。平坦(へいたん)なところでは井戸や川の水を用い、山間部では沢の水を用いていた。
現在ではもう体験できなくなったことも多いが、かつて人びとは自然とどのように向かいあっていたのか、またもっとも身近な小宇宙をどのように作り上げていたのか、といったことを概観してみることにする。