人びとの日々の暮らしの本拠となる家・屋敷は、自然環境のなかからどのように選びとられ、村のなかでどのように広かっているのだろうか。屋敷の場所の選び方は、以前は生活に必要な水が手に入らなければならないためにわき水や井戸水が出ること、つまり地下水脈がなければならないところとされていた。水が確保できたために集落ができたという言い伝えをもっているところもある。その一つとして五十平(いかだいら)(七二会(なにあい))は、よいわき水があり、緩傾斜地で農業に適していたので周囲から人が集まってきてできた集落であると伝えられている。山間部では地形が険しいために屋敷を自由に選定する余地が少なかったが、山崩れの常習地は避けるようにしていた。千曲川の水害を恐れていた地域では、それを避けることを屋敷取りの重要なポイントにし、やや高いところを選んでいた。以上をまとめた言い方で、須釜(すがま)(若穂保科)では「川のそばと山のねもとを避ける」といった。水害と山からの落石などを避けようとした表現である。
水難は非常に恐れられており、東横田(篠ノ井横田)のように水害のために一、二回は場所が変わっているといわれるところもある。村の氏神が集落の北東に位置するのも、その先にある千曲川の災害から守るためであったという。また、花立(更北小島田(おしまだ)町)は旧桜田神社付近にあったが、水害が多かったのでしだいに現在地に移住したといわれている。川の水は恐れるばかりでなく、日常的に利用しなければならなかったので、水難を避けることだけを考えると逆に日常生活の利便を損ねることにもなり、そのあいだの調整がむずかしかった。このほかには風当たりが強くなく、日当たりのよいところが選ばれた。村の旧家は、これらの条件を備えた、水があり、やや高地で乾燥した場所とされるところにあることが多い。古い集落は水害にたいしても有利な場所に立地できたと考えられるが、岩野北(松代町)のように比較的新しく発展してきた集落では、水害を避けることができにくいのでより強く水害を警戒していたところもある。
最近は水道が普及したために水の便は考えなくてもよくなり、桜枝(さくらえ)町などの商業地ではもともとそうだったが、交通の便のよさに配慮して、道路に面した場所に屋敷を求める傾向が強い。また、善光寺平では堤防ができたために水害にたいする恐れは大いに改善され、かつての小島(柳原)のように土を運んで屋敷地を高くするようなこともなくなり、だんだんに平地で街道に沿った場所に移っていったというところもある。