母屋の間取り

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母屋の間取りは昨今の改築によってかなり異なってきているが、戦後間もないころまでの、農家に多かった六間取りの民家の場合には、表側からみて土間(どま)(ダイドコ)、茶の間(トリツギ、イマ)、中の間(ナカザシキ)、表座敷と並び、裏側は廏(マヤ)、勝手、小部屋、奥座敷(オクノマ)と並ぶ。四間取りの場合には中の間と小部屋が省略されている。上層の家になるとお部屋というお産をするのに使っていた部屋があったり、茶の間が二間になるといった違いがみられる。表側の茶の間から座敷にかけては縁側を設ける場合がある。八月の十五夜にはかまのふたに餅(もち)と葉付き大根を並べて縁側に出し、すすきを飾って月に供えた。五十平(いかだいら)、日方(ひなた)(小田切塩生(しょうぶ))、戸部、入組などでは後産を母屋の縁の下に埋めた。間取りとその名称はところによって若干異なっている。

 母屋への入り口は土間にあり、表側のものをトマグチとかオオトマグチといって、オオドという引き戸がついていた。これにはけやきの一枚板が使われるものもあり、一人ではなかなか開かないほど重く、馬の出入りや大きな荷を出し入れするときにだけ開き、ふだんの人の出入りにはオオドについていた小さなくぐり戸を使っていた。ただし、葬式のときには祭壇の設けられた座敷の縁側から庭に出ることになっていて、トマグチは使わなかった。明るい屋外から土間に入ると暗く、目がなれるまではしばらくよく見えないほどであり、藁(わら)などの独特なにおいがしみついていた。昭和三十年代以降に母屋の改造の一環として、ガラスの引き戸にする家が多かった。土間の裏側にも出入り口があって、台所口といい、表から裏へ通り抜けられるようになっていた。長谷(篠ノ井塩崎)では嫁が最初に婚家に入るときに、この台所口の両側でタイマツをともし、そのあいだを仲人にともなわれて入り、嫁がお勝手(かって)から座敷に上がったところでタイマツの火は消した。これを栗田では嫁の通った道を焼き切って帰る道をふさいでしまうためとか、きつねが化けた嫁だといけないから焼いてしっぽを出すかどうか確かめるためと説明している。四ッ屋(川中島町)では麦藁のタイマツで嫁のしりをたたき「痛い」といわせ、「居たい」に通じさせた。タイマツでなくロウソクというところもあり、岩崎では男女のこどもがもつロウソクのあいだを通って嫁が入ると、こどもは互いにもっていたロウソクを交換してから火を消していた。ロウソクだけでなく、五十平(いかだいら)のようにタイマツでも交換する例がある。

 また、昭和三十年ころまで、嫁がはいてきた下駄(げた)から草履にはきかえて、土間に入ろうと敷居をまたいだときに、はきかえた下駄の鼻緒を切って屋根に投げ上げた。戸部では戸口でしゅうとが嫁に迎え水といって水を飲ませた。土間への入り口は、このような嫁入りに関連した所作(しょさ)がおこなわれるところでもあった。


図1-1 母屋の間取り(『長野県史 民俗編』より)