茶の間はふだんの家族のだんらんの間で、炉が切ってあることもあった。炉のことを囲炉裏(いろり)とかヨロリといい、日方ではジロともいった。今井では明治末まで土足のままあたれるように相当深く作ってあり、こどもが落ちると危ないほどであった。これにこたつをかけたものをコタツジロといった。一か所であるが、お勝手にも設けていた例がある。囲炉裏はごく一部では最近まで使われ、部屋を掃除するときにはまずオクラブチ(囲炉裏の縁)に雑巾(ぞうきん)をかけよ、とまでいわれ大切にされていた。囲炉裏の上に物を干すための棚が設けられていることもあり、鍋(なべ)などをつるすために、カギツケという上下に自由に動く鉤(かぎ)(自在鉤)が天井から下がっていた。これに竹筒を使っていた場合などは毎日雑巾でみがき、きれいなつやが出ていたもので、調節具には魚の形に彫ったものもみられた。茶の間と庭の仕切りには障子が使われて明るかった。
モノモライになるとよその家に行って障子の穴からむすびをもらって食べたり、障子の穴から縒(よ)り糸で指をくびってもらい、それで目の端をなでた。イボができたときには、障子の穴からイボのできた手を出して、イボを縛るまねをしてもらった。このように障子は呪的(じゅてき)な所作をともなう仕切りで、そこが霊的な境界とみなされていたようである。
囲炉裏のなかに作った竈(かまど)をヘッツイとかヒッツイとかという。焚物(たきもの)を置くところはヒジリとかキジリとかといった。南長池(古牧)では分家するものには竈の灰を持たせたという。マッチが出回ってから火打ち石の用途はなくなったが、戦前までは年配の人がたばこを吸うときに用いるのが見られた。火打ち石で火をつけたほうがうまいという人もいた。また、岡田では正月に神棚にすべての供え物をしてから、お参りする前に清めるために火打ち石で三回火花を散らしたというように、神事にも使った。木片の先に硫黄をつけた付け木は、ツケンパといって昭和初期まで使っており、戦後マッチが不足したときにも使った。これはものをもらったお礼に返す贈答用品でもあった。囲炉裏は桜枝町では馬方茶屋だけにみられたものだが、明治末になくなってしまった。赤沼では昭和三十年には二、三戸がまだ使っていたが、ほとんどの家では使わなくなっていた。囲炉裏が使われなくなった理由は、戦前から徐々に改良カマドが出回ったのに続き、昭和三十年代からプロパンガスが普及し、新しい台所用具が出回り、さらに家屋の改築が盛んになったためで、赤柴(松代町豊栄(とよさか))では昭和三十五年ころ、吉(よし)(若槻)・広瀬・五十平(いかだいら)などでも昭和四十年ころには完全にみられなくなった。
囲炉裏の座の名称はそれぞれ家の主人、主婦、お客、こどもが座るのに応じて決まっているところもあり、灰原では主婦が座るところをカカザ、客が座るところをヨコザというが、そのほかでははっきりしていない。しかし、名称はなくともそれぞれ座る場所は決まっていて、赤沼では村内の客はザシキ側と表側、塚本(若穂川田)では炊き口以外、境(稲里町)では大事な客は茶の間を背にする、というように応対していた。大切な客は囲炉裏のまわりに座ってもらうことはなかったというところもある。
冬は炉のある南寄りの茶の間で過ごし、夏は涼しい北寄りのお勝手で過ごすというように、表と裏を使い分けていることもある。神棚も茶の間に設けることが多かった。以前は座敷に神棚があったが、毎日人が寄るところのほうが粗末にならないというので、茶の間に移した例もある。あるいは、客をもてなす大事な場所だからというので座敷の床の間の上に棚を作って神棚をまつったり、えびすだけはお勝手にまつる例などもあり、一概にはいえない面もある。桜枝町や中町の商家では店に神棚が置かれている。
神棚には戸隠神社やえびす・大黒をまつるところが多いが、ほかにも八幡・金毘羅・諏訪・稲荷・出雲大社・秋葉・春日・古峯(ふるみね)・象山・山の神・田の神・馬頭観音など多様な神々をまつる。正月に汲(く)んできた若水は、北屋島(朝陽)、中川(松代東条)ではまず神棚に供え、それからお茶を沸かして飲むなどしていた。中沢(篠ノ井東福寺)・栗田・小市・境・花立・戸部などでは、お茶を神棚に供えている。小正月になると、赤柴・栗田ではネコオロシサイとかモメンダマツクリとかといって、餅(もち)をついたり米の粉を丸めたりして柳の枝などに挿して神棚に飾った。吉・日方・塚本・戸部・長谷・入組ではモノツクリ、マユダマツクリなどいい、米の粉で繭玉や小判の形に作って竹、榎(えのき)、柳などの枝に取りつけて茶の間に飾った。この行事は早いところでは明治末に、遅いところでも昭和四十年代にはやらなくなってしまったが、豊作を祈って天井まで届くくらいの飾り物を用意することもあった。神棚があり家のなかでは人通りの多い茶の間は飾るのに最適な場所だったのであろう。正月十五日には小豆御飯に餅を入れて炊き、神棚に供える。これを十八日に下ろして家族が食べたあとに成木責めをおこなった。二月の節分には豆を煎(い)って一升枡(ます)に入れて神棚に供えて灯明をあげる。東横田では豆まきを表座敷、茶の間、土蔵、長屋などの順に、戸を開け放しておこない、終わるとすぐに戸を閉める。岡(篠ノ井西寺尾)では豆をまく人のあとをこどもがすりこぎやほうきを持ってついていき、「ごもっとも、ごもっとも」といいながら豆を拾って歩いた。外に豆をまいたときには素早く戸を閉め、鬼が入らないようにした。