昭和初期から女性もしだいにモンペを着用するようになる。昭和十年代の信濃教育会編集の裁縫の教科書には、ユキバカマやモンペの作り方が書かれているので、長野市に限らずこのころからモンペは急速に女性たちに普及していったようである。着物にお腰を出した姿よりは、現在のズボンスタイルに近く、足さばきがよいということで、婦人会などでモンペ作りの講習会が開かれたところもあった。最初は前紐(ひも)とうしろ紐がついていてわきあきの部分で前身(まえみ)ごろとうしろ身ごろとに分かれる形のもので、また下にはマチが入ったゆったりした形のものであった。はくときには、着物の裾を左右に分け、左右それぞれの足の部分に入れてモンペを腰まで上げ、まず前紐を結び、つぎにうしろ紐を結ぶ。前紐はうしろ紐より長く、前からうしろに回して交差させて前にもってきて結ぶ。うしろ紐は前紐より短く前に回して結ぶだけの長さであった。用を足すときにはうしろ紐を解いてうしろ身ごろ部分を前のほうにもってきて押さえ、着物をたくし上げておしりをうしろに突き出すようにして中腰で小用をした。
モンペをはくようになると、長着では足のあたりに着物がたたまって重い感じになるので、しだいに丈の短い上衣が用いられるようになる。尻が隠れるくらいの丈のものを作るようになり、これを野良着、山ジバンなどとよんだ。これは半反で一枚を仕立てることができた。筒袖(つつそで)の着物と同じように仕立てたが、のちには袖口にゴムを入れたものなどもみられるようになった。さらに第二次世界大戦前後から、若い娘たちなどはズボン式のモンペの上衣に、ブラウスの着用などをするようになり、上衣のブラウスは戦後しだいに年配の人びとにまで広がっていった。
モンペは一反で二枚とることができ、家織りの紺無地や縞(しま)などで仕立てたが、絣(かすり)で作る人もいた。のちには腰や裾の部分にゴムの入ったモンペを仕立ててはくようになり、脱ぎ着がより簡単になった。