仕事をするのは農家の人びとばかりではない。町の人びともさまざまな職種に従事しながら、日を送っている。たとえば町に多い商家では、男女ともに長着に男性は角帯などを締め、女性は帯をお太鼓(たいこ)に結び、白足袋を履いていた。髪は髪結いが何日おきかに回ってきて、それぞれの年齢にあった髷(まげ)に結っていった。大店(おおだな)になれば、主人と番頭、見習いなどによって着るものが違ったし、主婦が店先に出て客の応対をするなどということはなかった。
たとえば旧善光寺町にある古くからの造り酒屋の奉公人たちは、ふだんは地縞の着物を着て店に出るときにはその上にはっぴを着たが、正月の売り出しや婚礼の酒を届けにいくようなときには、紺地に白の亀甲(きっこう)模様のあるはっぴに着替えていったものだという。
また、娘たちはすでに昭和の初めごろから、母親が和服などを改良して作ってくれたワンピースなどを着て過ごし、お茶などのお稽古事(けいこごと)のときや寝巻き以外にふだん和服を着ることはほとんどなかったという。大正六年(一九一七)生まれの女性も三、四歳のときに兄が軽井沢で洋服を買ってきてくれて以来ずっと洋服で過ごし、戦前に挙げた結婚式も洋装でおこなった。長野市で三人目の洋装の花嫁といわれた。このように、町のいわゆる上流階級の女性たちは、農家の女性たちに比べて早くからふだんの生活に洋服を取り入れ、着物はお呼ばれのときの晴れ着として着る程度で、着物と洋服の二重生活はしないと決めて、留袖(とめそで)と訪問着くらいしか作らなかったなどの例もみられる。
このほか町にはさまざまな技術を生かして仕事をする職人たちも多くいたが、それぞれの仕事の内容にあった支度をして働いていた。第二次世界大戦前後には、すでに現在の作業ズボンのようなズボンにシャツなどを着ていた。鶴賀七瀬の紺屋では、昭和二十年代には洋服を着た上に前掛けを掛けて、伸子(しんし)張りなどをしていた。