ふだん新しい着物や履物を下ろすということはめったになく、年間の折り目の日などを目安にして購入されることが多かった。そのもっとも一般的なものが正月と盆であった。正月を迎えるために主婦は家族の着るものを洗い張りをして仕立てなおしたり、新しい反物を買ってきて仕立てたりした。年の瀬は大掃除、餅つき、おせちの準備、神仏の器(うつわ)のおみがき、障子の張りかえなどいろいろな用事があって大変に忙しい時期である。しかし、元旦(がんたん)にはみんなが新しいさっぱりしたものを着て、新しい年を迎えられるようにと、主婦は仕事の合間を生かしたり夜なべをしたりして、懸命に針仕事をした。「夜中に目を開けてみると、まだ母親が私の着物を縫っていた」といった経験をしている人は多い。太田(吉田)や小市では、正月着る着物であるところから正月着・正月衣装などとよんだし、日方や中沢などでは正月着物とよんだ。また、綿入れに仕立てたために南長池や栗田では正月綿入れともいった。正月の晴れ着とはいっても、いずれはふだん着にする家が多かったから、たいていは木綿の縞(しま)や絣(かすり)で仕立てることが多かったが、お大尽(だいじん)の家では絹物を使って仕立てた。また、時代によって柄などにも流行があったが、はやりのものはなかなか作ってはもらえなかった。松代町表柴町の女性によると、昭和初期から十年代にかけてニコニコガスリなどがはやり、女の子はニコニコが着たくて仕方がなかった。それで、元旦に目覚めてみると枕元にニコニコの着物が整えられていたときには、本当にうれしかったという。昭和三十年ごろまで小学生は元日に登校して皆で新年を祝い、帰りには味噌(みそ)パンや紅白のまんじゅうなどをもらってくる習慣があったが、そのとき新しい着物や洋服を着て登校した。ほとんどの子が新しく仕立てられたものや、洗い張りをして仕立てなおしたこざっぱりしたものを着ていったという。
足袋や下駄(げた)も正月には新しいものを下ろしてもらう。とくにこどもは正月用にと、ツマカワのついた下駄を買ってもらうのがうれしかった。また、ご年始にくるお客様が、こどもにと塗り下駄や足袋などをもってきてくれることもあった。若い嫁はなかなか小遣いなどを自由にもらえなかったので、足袋や半襟などをお土産にもらうだけでたいそううれしかったという。結婚した最初の年の暮れには、しゅうとめが嫁や婿に肌着や着物や羽織を作ってくれたが、これを北屋島などではヨメオモテとよんでいた。
正月とともに、盆も着物を新しくしてもらう機会の一つであった。このときは浴衣などの単衣(ひとえ)物を作るが、吉(よし)、桜枝町など多くのところで盆浴衣(ゆかた)・盆衣装などとよんだ。瀬原田(篠ノ井)や灰原などのように、盆かたびらとよぶところもあるが、新嫁(あらよめ)に作ってやる単衣物だけをとくに盆かたびらとよんでいるところも多い。
女の子はこのとき、たもとの長い浴衣を作ってもらうのが楽しみだったというが、それは現在も変わりがない。十三日の迎え盆には大人もこどもも新しく整えられた、のりのきいた浴衣を着て三尺などを結んで墓参りにいく。盆にも家族のそれぞれに下駄を新調した。
このほか使用人を抱える家では正月と盆に、オシキセ(お仕着せ)といって着物を新調してやった。