ふだんは仕事に懸命になっているので、祭りなどは楽しみな行事の一つである。また、農家では町へ遊びにいくことも仕事をする励みになった。南俣(芹田)では秋、水田の仕事を終わらせてえびす講の花火を見に行くことが楽しみの一つだったので、こどもたちは「えびす講に連れてってやるから一生懸命手伝えよ」などといわれて、家の手伝いをした。町へ行くことはこどもだけでなく大人たちにとっても楽しみで、野良着からヨソユキとよぶいい着物に着がえ、おしゃれをして出かけた。ヨソユキのなかでも、お祭りや町へ遊びにいくときなどにちょいちょい着る着物をチョイチョイギ・チョクチョクギ・チョッコラギなどといった。チョイチョイギは、銘仙(めいせん)などの絹物で作るほか、絹と木綿半々の反物で作った絹物よりはやや落ちるものもあった。
このようにチョイチョイギなどを着てちょっとおしゃれをしたときには、女性たちはおしろいをつけたり紅をさしたりしてふだんはしたことのないお化粧などもして出かけた。チョイチョイギはこうしたときのほかに、親類へお祭りなどによばれていくとか、町へ買い物に行くとか、映画を見にいくなどというときに着た。嫁にくるときに何枚もの着物を作ってもらったような人は、同じ絹物でもがらゆきによって同じものを着ないように、それぞれの場所による着分けをした。のちにはチョイチョイギにウールや大島紬(つむぎ)などが用いられるようになった。
男性も女性と同じように着がえて出かけたが、女性より早くから洋装化がすすみ、第二次世界大戦後は着物で町へ出かけるのは年寄りが多く、若い者たちは洋服で出かけた。男性の場合ちょっと出かけるようなときでも中折れ帽子などをかぶる風が第二次世界大戦後に流行したが、昭和三十年代になるとそうした姿はほとんどみられなくなった。いっぽう、村の寄り合いなどに参加するときには少しいいものを着て参加するとか、村祭りのときには着流しで、氏神へ参拝したり客を接待したりする人も近年までみられた。現在も家によっては、ちょっと改まったことのあるときには男性も着物を着るという例が、農村部などを中心にみられる。男性の着物もチョイチョイギには絹物が用いられたが、第二次世界大戦前は家織りの縞(しま)や紬などが多く用いられた。男性用にもしだいにウールのアンサンブルなどが利用されるようになり、少しぜいたくな家では大島紬などを使って仕立てるようになった。