農村には年に何回かいっせいに仕事を休み、家のなかでゆっくりくつろぐ日がある。田植えが終わったあとの農休みなどはそのいい例だが、そのほかに雨の降った日を雨降り正月などともいって、外の労働から解放された。そうしたとき女性たちは家のなかでできる仕事をしようと、針仕事などに精を出すことになる。まずは、野良着の切れたところを繕(つくろ)う仕事があった。上着の背中やモモヒキのひざなど切れやすい部分は常に繕っていなければならなかったが、野良に出る日はヨナベにそうした仕事をした。しかし、蚕の飼育時期にはなかなか繕い物などはしていられなかった。
かつては家族のふだん着などは、家で糸を取り、機(はた)にかけて織り、仕立てられた。家で織るものにはさまざまなものがあったが、大正年間まではアサノノ(麻布)とよばれる麻の反物まで自家で織ったという報告が、赤沼(長沼)や境(稲里町)をはじめとする数ヵ所の村に見られる。また、木綿も家で綿を作り、綿の実を収穫すると種を取り除いてから、糸車にヨリコをかけて糸にし、反物を織った。木綿織りも大正年間まででおこなわれなくなったところが多いが、東横田や中沢などでは戦時中の物資が不足したころ、ふたたび自家製の木綿を織るようになり、戦後しばらくまで続いた。木綿はふだん着や野良着、布団などに仕立てるために需要が多く、古森沢などでは桑畑のあいたに綿を作った。
このほか蚕を飼っているところでは、売り物にならない玉繭などから糸を取り、紬を織って家族の少しいい着物とした。
織った反物や糸を自分の家で染めることも盛んにおこなわれ、くるみ、きはだ、こなし、くりなどの皮やえんじゅのはなびら、かりやす、あかねの根、鉄くず、田の渋などいろいろなものが染料として使われた。
こうした仕事はすべて女性たちの手によっておこなわれたため、かつては嫁入りの条件としてお針ができるとか機が織れるなどの条件があった。時代がくだって昭和十年代ごろには機織りは条件に入らなくなったが、針仕事だけは近年までできるのがあたりまえとされているところが多かった。昭和二十年に結婚した松代町のある女性は、嫁にきてすぐしゅうとめから綿入れを縫うようにいわれた。それまで勤めていて、袷(あわせ)くらいしか縫ったことがなかったのに「縫えません」とはいえず、本を見ながらようようの思いで仕立て上げたという。
忙しい仕事の合間に少しずつ少しずつ織ったり縫ったりして、家族にさっぱりしたものを着せようと、女性たちは懸命に針や筬(おさ)をもった。休み日は女性たちにとって、家のなかのそうした細々した仕事ができる貴重な日であった。そんな日には長着をシッパサミにすることなく着て、前掛けを掛け、たすきをして立ち働いた。今では着るものを、繕うというようなことはほとんどなく、自家製の衣服を着ることもほとんどなくなった。