葬式ができると、かつて近親者の女性は白無垢などを着るのが一般的で、現在のような黒の喪服(もふく)を着るようになったのは、明治時代終わりごろから大正時代に入ってからであった。白無垢はシロモクなどともよび、嫁入りのときに着たものと同じものであった。さらに連れ合いが亡くなった女性や喪主の夫人は絹の襦袢(じゅばん)のようなものの袖をかぶったが、これを四ッ屋・長谷などではカツギとよんだ。カツギは中沢では白い絹地で四つ身に仕立てたもので、嫁入りのときに作って持参し、連れ合いが亡くなったときには頭からすっぽりかぶり、近親者のときには肩へ掛けたものであった。岩野などではカツギを麻布で作った。いずれも大正時代の終わりから昭和時代の初めころまで用いられていた。
こうしたかぶりものは各地に見られ、十二や戸部などでは明治時代の終わりごろまで、近親者は綿帽子をかぶった。綿帽子のほかに白の綸子(りんず)で作ったアズマとよぶ、ツノカクシのようなものをかぶるところもあった。栗田では昭和時代の初めごろまで、姉妹や子分などはカラシマダという髷(まげ)を結い、白いアズマをかぶって着物は黒い帷子(かたびら)を着た。このほかカツギとアズマを使い分けていたところもみられる。たとえば、東横田では親が亡くなったときにカツギをかぶったが、近親者が亡くなったときには、アズマをかぶった。アズマは表は白、裏は赤または白の絹地で作ったものであった。上石川では大正時代の半ばごろまで近親者はカツギの袖(そで)をかぶり、参列者はアズマをかぶった。
こうした女性のかぶりものにたいし男性は、白の寒冷紗(かんれいしゃ)でできたケサとよぶ裃(かみしも)を着用した栗田(芹田)の事例のほか、跡取りがカタギヌをつけたり、キョウカタビラをつけた例が境などをはじめとする多くの集落にみられる。また、喪主が襟にさらしを掛けたりするところも、西平(にしひら)(浅川)をはじめとする多くのところにみられる。上石川では、さらしの長さが二尺五寸の木綿布の半分の長さの中央を手で裂いたものを襟に掛けた。このほか南長池では、近親者全員が耳や着物の襟元に、削りかけに似た白い紙花をさした。
葬式では履物にたいしてもさまざまな習俗がみられる。葬式の折の履物は藁草履(わらぞうり)やわらじが多く用いられたが、北屋島(朝陽)や松岡(大豆島)などをはじめとする多くのところで、素足に履いたという。そして履いていった草履やわらじは、戸部や広瀬などのように捨てたり焼いたりするところが多く、吉(よし)や灰原などでは墓に置いてきた。綱島では鼻緒を切って屋根に投げ上げた。