現在では白い御飯を常食としているが、米だけの御飯になったのは昭和三十五年(一九五五)ころからのことである。それ以前は、正月や節供(せっく)、お盆、えびす講、祭り、大晦日(おおみそか)などの特別な機会にしか米だけの白い御飯を食べることはできなかった。ふだんは麦や粟(あわ)・稗(ひえ)・野菜を混ぜて炊いたり、米のかわりにそば・粉もの・じゃがいも・さつまいもなどを食べた。麦の場合は大麦を精白してから石臼(いしうす)を使ってひき割りにした割り麦や押し麦・つぶし麦を三割ほど米に混ぜて炊いた麦飯にしたところが多かったが、日方・灰原・五十平(いかだいら)など山がちの西山地区では、主食は麦が主体で七割以上混ぜていた。また、粟や黍(きび)は粒のまま炊いたり餅(もち)にしたりした。米はじゃがいもやさつまいもを混ぜてイモメシにしたり、菜っ葉を入れてナメシを作ったりした。余り御飯だけで足りないときには雑炊(ぞうすい)を作って足しにした。朝のうちに昼の分までいっしょに炊いてしまい、朝食や昼食には、寒いころはじゃがいも・大根・にんじんを、春先や夏は雪菜やささげを入れて実だくさんの味噌(みそ)汁を作り、漬物、簡単なおかず一品をつけて出した。
夕食に麺類(めんるい)などの粉ものを食べる家庭も多い。小麦を栽培していた昭和三十年代以前は、精米所へもっていき粉にひいてもらったり、自分で水車を使ってひいたりした。特別な日にはこれを箱ぶるいにかけてふすまを取り除いて白くしたが、ふだん使うものはヒキオトシといってふすまが残っている黒っぽいものであった。しかし、昭和四十年代に入ると小麦粉を買ってきて粉ものを作る家庭も増えてきた。オニカケ(オトウジ)やオシボリなどは体のしんから温まるので、秋から春の食卓にしばしばのぼる。細目の麺を使うオニカケは、ゆであげた麺をトウジカゴという柄がついた小ザルに入れて、醤油(しょうゆ)味の汁と野菜の具(ぐ)が入った大鍋(なべ)の中でさらして味をなじませる。熱くなった麺を引きあげ、具が入った熱い醤油味の汁をかけて食べるものである。いっぽう、オシボリは、大根おろしの搾り汁で生味噌をといたタレにねぎやくるみのみじん切りなどの薬味を入れて、ゆであがったばかりの麺をつけて食べる。辛いのが好みの人は味噌の代わりに醤油を使うこともある。
このほかに、大根、にんじん、ねぎ、じゃがいもの味噌汁に幅広の麺を入れて煮こむオブッコや、小麦粉を水溶きして杓子(しゃくし)で少しずつみそ汁の中に入れて煮こむダンゴ汁(オツメリ・スイトン)などを作る。現在はオトウジには冷や麦用の乾麺(かんめん)を、オブッコにはオブッコ用のゆでてある平麺(ひらめん)を買ってきて使う家庭も多い。野菜あんを詰めて小麦粉を練った皮で包んで焼いたり、柏(かしわ)・みょうが・笹の葉などに包んでふかしたりするヤキモチ(オヤキ)、水溶きした小麦粉に野菜を刻みこんだり、薄く焼いた小麦粉の皮に野菜あんを挟みこんだりして焼いたセンベイやウスヤキなどを主食や補食として作ることもある。中に詰めるあんは、なすや野沢菜をはじめとして、かぼちゃ・キャベツ・大根や大根葉の塩漬けなどの野菜やおからなどを油味噌や塩、ごまで味付けしたものである。
調理する以前の米・麦・そば・大豆は俵やかますに入れて、土蔵や物置、台所などに保存した。そばや大豆は一斗も蓄えることは珍しかったが、麦は一俵前後(七二会では小麦が一俵、大麦が一俵半)、米は一石前後蓄えた。現在、夫婦二人、こども二人(成人)のある家庭では、米を一ヵ月二五~三〇キログラム計算で見積もって、蓄えている。