調味料

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春の彼岸過ぎころから味噌(みそ)炊きが始まる。近所の「ユイ」仲間が共同で大釜(おおがま)を購入したりして、味噌作りをおこなった。大豆は一昼夜水につけたあと、大釜で煮る。煮汁は塩を入れて仕込みまでとっておく。それから臼(うす)と杵(きね)を使って煮豆をつぶすか、藁(わら)靴を履きハギリ(ハンギリともいう)とよばれている大きな桶(おけ)で煮豆を踏みつぶした。戦後は味噌つぶし器が出まわった。現在は、つぶしたあとそのまますぐに仕込んでしまうことが多いが、昭和四十年ころまでは味噌玉にすることが多かった。この味噌玉を藁で天井や軒下につるすか、むしろの上に並べて一ヵ月ほどおいて乾燥させた。そして四月の末ころに仕込みに入る。犬石では昭和二十年代末ころまで、夜に近所の女性が集まってきて、白かびを洗いおとした味噌玉をござの上で包丁で刻み、塩と麹(こうじ)をよくまぶす作業をしていた。


写真1-19 味噌の仕込み(芹田 昭和53年)

 芋井では現在でも自分で麹(こうじ)を作る家庭がある。ここで作っている麹は、餅(もち)米とうるち米が混ざったりして出荷用の米の選別からもれて残ってしまったくず米を、店で購入した大麦(割り麦)とともに水につけておいてからせいろで蒸して作る。それをむしろに広げ、麹屋で買ってきた麹菌をまぶし、布団などをかけて保温して「花を咲かせて」作ったものである。大豆一升に麹を六合以上、塩四~五合入れるところが多いが、以前は麹が三合未満、塩が六合以上ということもあった。麹はたくさん入れるほど甘みが増すので、最近は多めに入れて作る場合が多い。これに取っておいたアメとよぶ豆の煮汁を加え、味噌玉よりも少し小ぶりに丸めて桶にたたきつけるように詰めて仕込んだ。昔は家族一人あたり一斗以上作ることが多かったが、近ごろでは五升未満という家庭も多い。味噌漬けを作る場合には、このときに塩漬けした野菜を水で洗ってからところどころに漬けこんでしまう。最後に味噌の上をさらしの布でおおい、中蓋(なかぶた)をしておもしをのせておく。味噌の仕入れが終わると麹の残りで甘酒を作って祝った。お茶うけに味噌玉の皮をそいだものをとっておき、油で焼いて砂糖醤油につけて食べた。

 東横田では、仕込んだ味噌のなかに細長い竹かごを入れて、そこにしみだしてくる塩味の液をタマリ、味噌を煮て布袋でこしてとっだものをスマシとよび、主に醤油の代用品として使った。他方、小市のようにタマリを取ると味噌がまずくなるといって取らなかったところもある。七二会では味噌を仕込むときに、桶の底にお葉漬けや大根の塩漬け、おからなどを布袋に入れて敷いておき、味噌が残り少なくなってくるとこの下置きを取りだしてから煮てこし、これをタマリもしくはオスマシとよんでいた。味噌は三年くらい寝かせておくと風味が増すので、「三年味噌」を作って使うことが多い。芋井でも昔から「白味噌と生のたきものは使うものではない」といわれている。これは成熟が不十分で赤くなっていない味噌や、乾燥していない薪を使うということは、十分な蓄えがなく貧しい家庭であることを意味し、周囲からさげすまれるのを忌んでこのようにいいあらわしたのだろうという。

 醤油は昭和三十五年ころまでは業者に来てもらって仕込みを頼むことが多かったが、現在ではできあがった醤油を買うことが多い。業者に頼む場合には、味噌の豆を煮るころに来て醤油を仕込んでもらう。それを毎日かき回していると半年くらいで熟成するので、秋になるとふたたび業者に来てもらって搾(しぼ)る。

 以前は塩はかますに入れたまま、ニガリブネ・ニガリオケ・クリマキブネ・桶(おけ)・かめなどの上に棒を渡し、そのうえに置いてニガリを取った。また、塩は葬式のとき火葬場や墓からもどると戸間口のところでまいたり厄払いにまいたりするほか、井戸掘りや建前のとき、祭りや年とりの餅(もち)をつくときなど神事や祭事のお清めに使う。

 砂糖は昭和二十五年ころまでは黒砂糖が多く用いられていた。灰原では戦前はワジロとよばれる赤砂糖やざらめもよく使っていた。これらの砂糖以外に甘さを求めて柿を用いることも多かった。また、さとうきび・砂糖大根・なつめ・かぼちゃ・かぶやサッカリンを使うこともあった。現在は黒砂糖は白砂糖よりも高いことが多いが、当時はもっとも安く、こどもはおやつやお駄賃に黒砂糖のかけらをもらうことも多かった。

 薬味にはさんしょう以外にもわさびやくるみ・ととき・にら・あさつきを用いた。油は菜種油やごま油、大豆油を使うことが多かったが、いくさやくるみ、綿の実、あまの油も使ったり、うさぎ・鶏・豚・牛の脂を使うこともあった。だしは煮干しや鰹節(かつおぶし)、昆布のほかに鶏がらやうさぎの骨、にんじん、干したきのこからとった。