はじめに

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 道は、近隣の集落をはじめ、遠く離れた地域からも多くの人びとや文化、品物などをもたらした。徒歩が唯一の交通手段であったころにも、人びとは江戸を中心にのびた主要街道を使い、伊勢参りや巡礼の旅に出かけた。長野には各地から善光寺参りに訪れる人も多く、その道は善光寺道とよばれ、道標などが整備され、旅人の便に供していた。このような遠方の地域と結ぶ街道に限らず、人びとの住む町や村のなかにも、そこでの暮らしに密接したかたちで道が設けられ、その住民によって守られていた。田畑に入る道はウマイレとよばれ、農家にとってはなくてはならないものであった。ウマイレのない畑では、道に面した畑の持ち主に三尺ほどの土地を譲ってもらうなどして、新しく設けなければならなかった。また、遠くの産地からは、馬や牛の荷車で品物が運ばれ、土地の商人や産地から来た行商人によって、商いがおこなわれていた。

 日々の暮らしに欠かせない穀類や野菜などは、かつてはそのほとんどが現在の長野市域で賄われていた。千曲川東岸の保科(若穂)・綿内(同)などからは、ハコショイとよばれる女の人たちが、自分のところで採れた野菜を背負って売りにきていた。いっぽうで、海のない長野には、かつては新潟などから海産物の行商人が訪れていた。海産物のほかにも毒消しや鎌(かま)などの日用雑貨も、それぞれの産地の行商が売りにくることがあった。また、繭や麻などの仲買人は西山方面から買いとり、周辺の商人に卸していた。このような商いに限らず、神社や寺の縁日や特別の日に立つ市には、近隣の集落の人びとがお互いに行き来し、どこでも大変なにぎわいをみせていた。