北国街道のような主要道路をはじめ、近隣の村どうしを結ぶ道筋には、往来する人や牛馬の便宜のため、宿泊施設や道標、渡し場などの交通施設が設けられていた。
自分の足で歩いて旅をしていたころの人びとにとって、街道沿いに設けられた宿屋や茶店は、疲れたからだを休めるための大切な施設であった。とくに遠方からの旅人の多い主要街道には、かならず宿場が設置されていた。宿場には、大名などの宿泊する本陣や脇本陣と、そのほかの旅人が宿泊できる旅籠(はたご)屋や木賃宿(きちんやど)があった。また宿場では、荷物の継ぎ立てがおこなわれ、それをとりしきる問屋場が置かれていた。
茶屋は、遠方からの旅人に限らず、近いところへの移動や荷物を運ぶ馬方たちの休息の場所として利用される場合も多かった。単に茶屋とよばれるほかに、馬方茶屋とも腰掛け茶屋ともよばれていた。馬方茶屋では、一杯の酒と煮しめなどを出し、ほかにわらじや草履、駄菓子を売っているところもあった。桜枝(さくらえ)町には馬方茶屋が二軒あり、馬を裏につないで酒と煮付けを出していた。また、馬方が出入りしていた穀屋でも、煮付けを出すこともあった。北国街道の通る古森沢(川中島町)には、人力車屋などのそばに茶屋があり、とてもにぎやかだったという。また、篠ノ井から現在の信州新町に抜ける道沿いの原市場・三水(さみず)・今泉・吉原(以上信更町)にもそれぞれ一、二軒の馬方茶屋があったが、自動車が通るようになり馬方たちの往来が少なくなると、茶屋も姿を消していった。
また、旅人が一服する茶屋は、道と道とが分岐するところにも見られることがあった。北国街道に善光寺街道が合流する篠ノ井追分とよばれるところには、数軒の茶屋があり、通過する多くの旅人は、そこで休みみずからの行き先を確認していた。このような道が二またに分岐したり交差するところを、オイワケやツジ、ワカサレ、ワカサレットなどとよび、茶屋や旅人のみちしるべとなる目印が設けられている場合があった。
道の分岐点を示す目印には、けやきなどの大きな木や、行き先を刻んだ石碑などが置かれていた。目印となる木には、けやきのほかに松や柳、桜などがあり、道の分岐点を示すだけではなく、木陰を作りだし旅人の休息の場になることもあった。
石碑に道の行き先を刻んだものを、ミチシルベ(道標)、シドウヒョウ(指導標)、ミチアンナイ(道案内)などとよんでいた。徳間(若槻)には、慶応元年(一八六五)の年号のある四角い石碑があり、「右いひ山なかの 志ふゆ(渋湯)くさつ道」と書かれた道標が、今でもかつての道筋を示している。村はずれに建てられた道祖神碑や庚申塔(こうしんとう)が、そのまま分岐点の目印にもなっている場合があり、それらの石碑には直接行き先が刻んであるものもあった。灰原(信更町)では、庚申塔や六地蔵、二十三夜塔が道標になっていた。また、長谷(はせ)(篠ノ井塩崎)では分かれ道に馬頭観世音の石碑を建て、「左山道、右寺道」と刻み、道標にしていた。これらの石碑には、旅の安全を祈願し、村の災いを追い払うなどの信仰もあり、南長池(古牧)では餅や花、石などを供えお参りをすることもあったという。村の中心には道路元標が建てられており、その村の名前と、村から県庁までの距離がわかるようになっている。
千曲川や犀川などの大きな川を渡らなければならない街道筋には、人や物を対岸に渡すための渡し場が設けられていた。渡し場には、川の流れが緩やかで水深のあるところが選ばれた。川の両岸を鉄線や綱で結び、船頭はその綱をたぐって船を動かしていた。犀川を渡る丹波島の渡しは、北国街道を善光寺に向かう人びとにとって、最後の難所であった。旅人に限らず、日々の生活のなかでも対岸や中州にある耕地に渡るための渡しは各所にあり、東横田(篠ノ井横田)では、昭和二十年(一九四五)ごろまで東河原に渡し場があり、岩野(松代町)の人が対岸の農地を耕作するために使われていた。赤沼(長沼)でも同じころまで渡し場があり、長沼と相之島(須坂市)とを結ぶ交通に使われていた。また、赤沼の杭(くい)とよばれる船着き場では、川を使って運ばれた物資が荷揚げされていたという。
橋を架けにくいような大きな川を渡るための交通施設であった渡し場も、各所に橋が架けられるようになるとしだいに使われなくなっていった。そのいっぽうで、屋島橋が、まだ簡単な橋しか架けられなかったころは、橋が流されると舟を使っていたこともあったという。しかし、昭和二十年ごろまでには、ほとんどの渡し場はその役目を終えている。現在関崎橋の架かる場所には、かつて千曲川を渡る渡し場があり、安政五年(一八五八)に建てられた善光寺常夜灯が、今も川を渡る交通を見守っている。