長いあいだ家を離れて旅に出ている人を心配する気持ちは、今も昔も変わらない。鉄道のような便利な交通手段や電話など簡単に連絡が取れるものがなかったころは、一度旅立ってしまえば途上の安否を知ることはむずかしく、いつ帰るとも知れない人を待つ不安は非常に強かった。また、多くの人は、一生に何度も旅に出るということはなかったという。
このようななかでも、旅はさまざまな目的でおこなわれていた。代参講(だいさんこう)は、講の仲間を代表して社寺にお参りに行くもので、庶民の代表的な旅の一つであった。塚本(若穂川田)の伊勢講では、講仲間から講金を集めて、抽選で二人ぐらいずつ代参に行っていた。代参から帰ってくると、ハバキヌギといって一杯飲む会があり、このときにいただいてきたお札やお土産(みやげ)のはしと青のりを配った。戸部(川中島町)でも、交代で代参に行っていたが、交通の便がよくなると、全員で行くこともあったという。
このような代参に旅立つときは、講中(こうちゅう)(講仲間)に村境などで見送られるのがふつうであるが、近所の人や家族にも知られないで伊勢参りに出かけてしまうものもあった。これをヌケマイリといい、一生に一度はお伊勢参りに行きたいと願うがなかなか出かけられないものが、仲間二、三人とこっそりと出かけてしまうことがあったという。このほかにも、三峯(みつみね)講などでも代参がおこなわれていた。
このような、比較的楽しげな代参にたいし、送るものも送られるものもつらく寂しい旅が、こどもの年季奉公や出稼ぎ、兵隊の旅立ちであった。残されたものは、村境や橋のたもとで見送りながら、旅の安全を祈るとともに、これから始まる見知らぬ土地での生活を思いやり、からだに気をつけて無事に帰ってくることを祈ったのである。鉄道が敷かれ、遠くへは汽車で行くようになると、旅立ちや見送りの場所は駅へと変わっていった。
旅に出た人の無事を祈り、残されたものでカゲゼン(陰膳)をすえることがあった。旅に出ている人のためにも家族と同じように、食事をつくってお膳(ぜん)に盛っておくもので、明治時代ごろまでは、伊勢参りや年季奉公に出かけた人の無事を祈って各家でおこなわれていた。また、太平洋戦争に出征した兵士のために、カゲゼンをすえている家があったという。
カゲゼンは、旅に出ているものの妻や母親がすえる場合が多いが、そのこどもや家族のものが交替でやる場合もあった。吉(よし)(若槻)では、奉公に出ていった人のために、母親か妻が当人のハコゼン(箱膳)や、場合によっては客用の膳に家族と同じ朝食を盛ってすえていた。屋島(朝陽)では、伊勢参りのときに家の人が交替でカゲゼンをすえていたという。また、赤沼や日方(ひなた)(小田切塩生(しょうぶ))では、盆や年取りのときに、カゲゼンをすえる場合があった。戸部(川中島町)でも、祭りや特別変わった料理を作ったときにカゲゼンをすえる風習があり、家から離れている人が、おなかがすかないように、無病息災で無事帰るように願ったという。
このほかにも、伊勢参りに出かけた人のために、杭にわらじをかけておき、旅人の無事を祈ってそこにときどき水をかけてやる風習もあった。
わらじは、歩いて旅をしていたころの必需品であり、鉄道が通るようになってしだいに使われなくなってきたが、昭和二十年ごろまで小学校の遠足や山登りなどで使うこともあった。町場の桜枝町では、荒物屋でわらじを売っていた。戸部では、大正七、八年ごろまで使われていたが、自分で履くわらじはヨナベ仕事で自分で作っていた。よそ行きのわらじは、上手な人に頼んで作ってもらうこともあった。形もよく丈夫で見栄えがよかったという。
わらじやハバキは、旅人の象徴的な身支度であったため、旅を終えたり、遠くからやってきた旅人がその土地に定住することを、ワラジヲヌグとかハバキヌギをしてムライリをするとかといった。定住する旅人には行商人や職人が多く、今井(川中島町)や東横田には新潟県からの屋根職人が、ムライリをしたことがあった。また柴(松代町)には、安山岩の切り出し場があり、石屋で定住したものも多かった。こうしたムライリのときには、うしろだてになってもらう人を親分に頼んだ。親分とはその後も長く付き合いをしたという。