人やものが行きかう道には、いろいろな道があり、それぞれそこに住んでいる人びとの毎日の暮らしには、なくてはならない大切な存在であり、それを管理するのは地元住民の役目であった。
村内で利用する道は、年に何度か道普請(みちぶしん)といって、傷んだところを修理することがあった。年に一、二回おこなうところが多かったが、長谷のように道が舗装されるようになったために、昭和三十四年(一九五九)ごろから回数が一回に減ったというようなところもある。道普請は西平(にしひら)(浅川)や太田(吉田)のように、区長や村役人がやるかどうかを決めておこなう場合と、古森沢や三水(さみず)(信更町)のように、祭りや行事のために道をきれいにする場合などがあった。太田では昭和十年ごろまで、ミチブシンカンヤクといって村中が総出で、午前八時から午後の四、五時まで手分けをしておこなっていた。戸部では、昭和三十五年ごろまで三〇軒から四〇軒の集落ごとに、年に三、四回おこなっていたという。いっぽうで道普請をやらないところや、四ッ屋(川中島町)のように作業を青年団が請け負ったり、ほかから人足を調達しておこなったりするところもあった。しかし、多くの場合、道普請は、オテンマなどといって村の全員が無給でおこなうもので、作業に出なかったものには出不足(でぶそく)として、日当分のお金やお酒を出してもらうところもあった。ただ、村に住んでいても、その家の事情によって道普請が免除される場合があった。女だけの家や老人の家、病人のいる家などが免除されることが多かった。免除にはとくに決まりはなくても、出られないような家は、村内では皆がわかっていたため、戸部や東横田のように黙認の形が取られていたところもあったという。
川の中州の耕作地などへの村人の行き来や、物資の運搬に使われていた渡し場もまた、そこに暮らす人びとによって守られていた。自分たちが主に使う渡し場や堤防は、村の人たちで修築した。また、渡し場の船頭(渡し守)の賃金も、村内で出しあっていた。松代中町では、船頭の賃金を村の費用や区費で賄っていた。また四ッ屋や中沢(篠ノ井東福寺)では、村の全戸から米や麦を集めて船頭に渡していた。このようなところでは、村内の人は無料で渡しを利用することができた。渡し賃を取る場合は、それを船頭の手当としていたところもあった。