運搬の方法

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荷物を家から家、村から村などに運ばなければならないことは多い。現在では、鉄道や自動車をはじめ、飛行機などでアッという間にたくさんの荷物を、遠くに運ぶことができる。しかし、これらの交通手段のなかったころは、人は自分の背に荷物を背負ったり、天秤棒(てんびんぼう)でかついだりして運んでいた。また、馬や牛に荷車を引かせたり、あるいはみずから荷車を引いて運ぶことがあった。また、駄賃をとって荷運びをするダチンショイやニショイ、カツギヤ、ベンリヤなどとよばれる人もいた。しかし、多くの場合は、こうした人は農閑期に山から薪などを売りに来たり、人に頼まれて荷物を届けたりする人で、このあたりでは荷運びを専業にしている人は少なかった。桜枝町でベンリヤとよばれていた人は、長野から中野(中野市)あたりまで、頼まれた品物を届ける人であった。荷物だけでなく、手紙や現金なども頼まれる場合があったという。

 桑や稲などの農産物や薪を、背中に背負って運ぶときには、ショイコ(背負い子)とよばれる道具を使っていた。背負って荷物を運ぶ方法は、手にもったり抱えたりするより、比較的重い物やたくさんの物を一度に運ぶことができ、運ぶ人にとっても荷物が安定して同じ状態で遠くまで行くことができた。ショイコは、梯子(はしご)状の木の枠に荷物をつけて背負えるようにしたもので、背中に当たる部分には、藁の細縄をしっかりと何重にも巻きつけて、背中が痛くないようにしてある。また、栗田では藁(わら)で編んだショイコシタギとよばれるものを着て、ショイコを背負うことがあった。ショイコの長さは、使う人の背の高さによって異なり、小市では使う人の身長に合わせて大工に作ってもらうこともあった。また、戸部や今井などでは、自分で作る人もいたが、たいていの人は店から買ったものを使っていた。

 ショイコは、荷物を付けて立ちあがるときに楽なように、平地では足の長いものを使い、山のような坂道の多いところでは、短いものを使っていた。ショイコで荷物を背負って移動をする途中で休憩をとるときには、ニズエやネジンボ、ネズンボ、ヤスミボー、マタンボーなどとよばれる棒を使ってショイコを支え、荷物を背負ったままの状態で休んでいた。とくに丈の短いショイコでは、この棒が必要であった。


写真1-29 ショイコ (芋井 昭和28年)

 大量の荷物を、より遠くに移動させるためには、荷車を使った。ふつう人が引いて荷物を運ぶのに使っていた荷車や大八車(だいはちぐるま)とよばれる二輪の車は、リヤカーが普及する大正の末ごろから昭和の初期までは、どこでも使われていた。西平や東横田、中沢では、太平洋戦争中も盛んに使っていたし、五十平では戦後もしばらくのあいだ、大八車を使っていたという。また、運送では運送車といって、大型の大八車を牛や馬に引かせて、運び賃をとって荷運びをしていたところがあった。北屋島(朝陽)には、運送で旧国鉄吉田駅(現JR北長野駅)から須坂の製糸工場まで石炭を一日に二回運ぶ仕事をしていた人がいた。東横田では、昭和二十三年(一九四八)ごろまで、長野や上田方面に米や野菜などを卸(おろし)に行くときに、運送で運んでいたという。

 このほかにも、ツーセン(通船)とよばれる船を使った運搬があったし、冬の積雪のあるときには大きなソリを使って荷物を運ぶこともあった。