長野県はどこも海に接していないので、海産物を手に入れることはむずかしい。そんななかでも、長野市は日本海に比較的近く、保存のきく海産物をもって新潟県から行商人がくることが多かった。どんなものをもってきたかといえば、きつく塩のきいたさんまやいわしなどの塩魚、にしんやたら、煮干しなどの干物、昆布やわかめなどの海草がおもだった。主として南安曇郡豊科町以北の中信地方で、盆のごちそうとして食べるエゴは、北信では西山から七二会あたりまで食習慣があることから、エゴ草をたずさえた糸魚川(いといがわ)(糸魚川市)の行商人がそのあたりまで訪れていたことが知られる。
行商の来る時期は、魚はいつとはなく年中やってくるものが多かったが、乾物では一定の時期にくるものもいた。古森沢や上石川(篠ノ井石川)では、春か秋に越後からわかめ売りの女性がやってきた。桜枝町では、第二次世界大戦以前には、わかめや昆布、魚のひらきなどを売る越後の行商人が、天秤棒(てんびんぼう)をかついで春に売りにきた。また、越後からの行商人では、女性の姿も目につく。太田では、越後の女性の乾物屋が身欠きにしんや昆布を春に売りにきたというし、東横田では、腰巻きをつけた越後の女性が、籠(かご)に入れた魚を天秤棒でかついで春と秋に売りにきたという。
越後からきていた行商人には、長年来ているうちになじみとなって、こちらへ住みついてしまった人もいる。また、長野の魚屋には出身が新潟県だという人が少なくない。堀之内(更北真島町)では、越後から来た魚の行商人が本拠地を決めて、春先には笹あめを売り、暖かくなると市場から運んだ魚を売り歩いていた。そうした行商人のなかには村に住みついた人もいるという。
長野市街や松代・篠ノ井などの大きな町に店を構える魚屋でも、中小の店では店で売れるのを待つばかりではなく、少しでも商売をしようと周辺の農山村へ行商に歩いた。それは、魚屋の若い店員の仕事とされた。売ったのは竹輪などの日持ちのする加工品や、田植えにしんなどのような時期になるとかならず売れるものであった。田植えにしんは、田植えじまいのごちそうとして煮物に入れて煮るもので、田植えの早い北からはじめて南部の平坦(へいたん)地へと、順に売り歩いた。