青物商い

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長野市街地を離れて、落合橋で千曲川を渡った保科・綿内・牛島(以上若穂)のあたりからは、自家栽培や近所で仕入れた野菜をもって、市街へ行商に出る女の人たちが昔から多かった。彼女たちは、それぞれの地域に嫁いだ人びとで、昭和時代の初めごろまでは、桐(きり)で作った箱に野菜を入れ、その上に風呂敷をのせて背負い、また昭和十五年(一九四〇)ごろからはリヤカーに野菜をのせて、長野市街まで運んで売り歩いたのである。この人たちは、箱を背負って行商をしたことから、マチではハコショイとか年配者が多かったからかハコショイバアサンなどとよばれることがあった。

 行商に出る人たちの服装は、黒のハバキをつけてゴムソコとよぶ地下足袋をはき、着物のすそをはしょって柄の腰巻きを出し、エガケをして手ぬぐい二本で頭と顔を覆ったものだった。ふだんのゴムサイ(見てくれの悪い)かっこうでは町の人たちは買ってくれないので、身ぎれいにして出掛けたという。

 商品となる野菜は、自分の家で採れたものはもちろんだが、牛島(若穂川田)あたりの農家から仕入れることが多かった。前日の帰りに翌日買う野菜を頼んでおいて、出掛ける朝、農家に寄って現金で買った。農家にとって、市場に出せるほど数がまとまらないとき、たとえきゅうり五本でも売れるのでまことに都合がよかった。また、農家から買う行商のほうも、市場で買うよりも安く、目方を多めにもらえること、少量多品種をそろえられることなどから、市場よりも農家で直接買いつけるほうがよかったという。直接農家から買うほかに、仲買人のような人がいて、落合橋の土手ヘリヤカーで野菜を仕入れてもってきており、行商に行く人たちに売っていた。これは、行商の通り道からはずれた農家の人たちだったという。これだけあちこちから野菜を仕入れても、お得意さんの注文の品が手に入らないようなときには、七瀬(芹田(せりた))の問屋や小売店で仕入れることもあった。

 行商の初めのころは、市街地の近いところの家から順に訪ねて売っていった。何回も行くうちにはなじみになり、待っていてくれたり、弁当を食べさせてくれたり、翌日の注文をしてくれたりするお得意ができた。お得意へは、特別何かをもっていったり、余分に野菜をやったりして、単なる商売の関係以上の間柄となった。

 この青物商いは、戦後の食料難の時代になると、何をもっていっても売れたのでやる人が増え、遅くは昭和三十年代に始めた人も何人かいた。現在はほとんどやる人はいなくなったが、人と出会えることを生きがいとし、今も行商を続けている人もいる。


写真1-31 青物商い(七瀬 平成8年)