生産者と業者とのあいだにあって、多数の生産者から産物を買いあつめ、数(量)をまとめて業者に売るのが仲買の仕事である。繭買いは、養蚕農家から繭を買いあつめて、繭問屋や製糸会社へ売ったものである。桜枝町には繭問屋があり、西山方面の仲買人が農家から繭を買いあつめてもってきた。問屋の店先で仲買人と問屋とがそでのなかに手を入れて、手の符牒(ふちょう)で値段を決めた。値段の折りあいがつかないと、白い木綿の袋に入れた繭を背負いだして、他の問屋へ行くこともあった。問屋では仲買人から買った繭を荷車に積んで須坂の製糸会社へ運んでいった。繭買いの出所は、多くの製糸会社がある松代・須坂・篠ノ井・諏訪などであった。大正時代に繭糸(けんし)会社ができると、できのいい本繭は農家が直接そこへもちこむので、仲買の必要はあまりなくなった。栗田では、松代町の仲買人が蚕あがりに買いにきたのは、千歳町に繭糸会社ができる大正時代の初年ごろまでだったという。
本繭は繭糸会社ができるとそちらへ出荷してしまうとしても、玉繭・中繭・びしょ繭などというくず繭は製糸会社では扱わないために出荷できない。これらの一部は家庭で糸にひいたり、真綿にしてからつむいだりしたが、真綿の業者に売るためにくず繭だけを買い歩く繭買いがあり、これは遅くまで残った。太田では、繭買いが六月下旬から七月上旬にかけて、村の周辺から玉繭や中繭・びしょ繭を買いにきた。買った繭を白い木綿の袋に入れ、天秤棒でかついだり自転車やリヤカーで運んだ。古森沢へは昭和二十五年ごろまで、本繭買いとくず繭買いが別々にやってきた。本繭買いは篠ノ井南原・北原から上蔟(じょうぞく)のときにきたし、くず繭買いは松代町から繭かきがすんだあとにきた。