現在のようにほとんどの農産物を農協に出荷する以前は、穀屋が村を回って、大豆・小豆・小麦などさまざまな穀物を買いあつめていった。食糧が統制になるまでは、米も買いにきた。米や麦などの仲買人を穀屋とか、もみ買いというところが多い。太田では、穀屋が主としてもみ・大豆・小麦を十一月から翌年の七月ごろまで買いにきた。穀屋は、前金として渡してあった肥料代を差しひいて代金を渡した。栗田でも市村(芹田)・古牧・真島(更北)から買いにきた。買うのは多くても五〇俵ぐらいだったという。穀屋は、買いあつめた米や小麦を精米所などへ売ったようである。これらはいずれも町から村へ買いにきたものであるが、村内に仲買人がいたところもある。塚本では、それをコメバコショイといった。コメバコショイは何か品物をもってきて、米とものとを交換した。かつては農家の現金収入は農産物を売る以外になかったから、現金のかわりに米が使われたり、小遣いを得るために収穫時に限らず、わずかの米を売ることもあった。赤沼へは、中野や須坂の穀屋が、年中米や豆を買いにきていた。
雑穀類とくに豆類は、元来自家用として栽培したものであるから、大量に出荷できるような家はなかった。そこで、仲買人がこまめに農家を回って買いあつめる必要があった。入組では、大豆やささげ、小豆などの豆類を秋から冬にかけて町から買いにきた。農家の姑(しゅうとめ)や嫁は現金がほしいので、戸主に内緒で売って自分の小遣いなどにしたという。太田には、須坂周辺から一斗缶や麻袋をもって大豆だけを買う大豆買いが、十二月から四月にかけてやってきた。