農産物・牛馬・繭などは、せり市を開いて取引をすることがある。野菜は旧市内以外にも生産地に近い場所に、何ヵ所か市場があった。ふつうの農家で野菜の運搬に荷車やリヤカーを使っていたころには、出荷する場所は近いほどよかった。また、行商や小売店などのせりに参加する側では、少しでもいい品物を安く仕入れようと、何ヵ所も市場を回った。
今はなくなったが、松代町の寺尾青果市場は昭和の初めに始まった。当時は車がなく、近隣の農家は長野の市場までもっていくのが大変だったので、ここへもちこんだ。農家では農産物を畑から直接市場へもってきて、五〇本、一〇〇本単位で新聞紙や藁(わら)の上に並べた。せりに参加できるのは、松代青果商組合に入会金を払って加入した人で、加入すれば屋号でよばれた。セリオヤ(競り親)は松代で八百屋をやっている人を朝のせりの時間だけ、市場で頼んできてもらった。せりがすんだものは、だれがせり落としたかを申しでて市場で記録した。これをチョウツケといった。市場ではチョウツケの伝票を見て、生産者から売り上げの合計の八パーセントの手数料をとった。手数料の支払いは随時だったが、昔は盆暮れ勘定が多かった。そのうちにだんだん、月ごとの支払いへと変わった。せりに参加したのは、ヒキウリといい、リヤカーをひいて青木島・旧長野市・川中島を行商をして歩く女の人たちだった。
繭は昔は繭買いが各戸を回って買いあつめていたが、繭糸(けんし)会社ができてからはせり市となった。戸部では、更級繭糸ができてからせり市に出すようになった。せり市は篠ノ井でおこなわれることが多かった。繭を出荷するごとに、せりをやった。せりで高く値を付けさせるために、売り子に懸賞をつけたこともあった。これは、自分の家の繭がどれくらいで売れたかを自慢するためのものであったという。
そのほかせり売りしたものには、古着・瀬戸物、家が破産したときの家財道具などがあった。