田植え

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善光寺平では、シツケ(田植え)は六月中旬から七月中旬にかけて、比較的長い期間にわたっておこなわれる。主に北西部から順に南東部へと田植え地域は移っていく。

 田植えをおこなう日は、家ごとに毎年ほぼ決まっている。さらに、その日に合わせてスジマキ・タアカキ・アゼヌリなどの作業日程を決めていた。ただし、用水灌漑地では、自分の地域に水が回ってくるまで田植えができないことも多い。

 田植え方法としては、縄を張ってそれを目印に植えていく方法がかつては一般的であった。田植えの縄は明治時代から使われていて、のちには植える間隔ごとに印のついた縄も使われるようになった。そのほか、ワクやハシゴとよばれる定規を使うようになるのは昭和になってからのことである。

 また、綱を張って田を植える以前は、田植えは目見当でおこなわれた。そうした目見当の植え方を古森沢(川中島町)ではメッタウエとよんだ。また、オイウエ・オイダウエといって、先に人が植えたあとを追いかけるようにして、一人が一畝(三〇坪、約一アール)または二畝を担当して植えていく方法もあった。こうした植え方は、比較的小面積の田では昭和になってもおこなわれていた。そのほか、明治以前の植え方として、南長池ではマルウエといい、田の中心に一束だけ先に植えておき、それを中心に渦巻き状に植えていく方法もあった。

 田植えの日には、朝早くナエトリ(苗間から苗を束ねてもってくる)をおこなう。

 田植えを一日で終わらせるには、その家の労働力だけでは足りない。そこで里の村では二つの方法をとっている。エエまたはエエッコとよぶ労働交換(ユイ)と、ソウトメ(早乙女)に代表される金銭による外部労働力の導入である。エエは三~五軒の家で組んでおこなった。自分の田をみんなにエエで田植えをしてもらうと、その人は今度エエガエシとしてみんなの家の田植えを手伝う。一軒当たり一日として順番に田植えをしていく。エエを組む家はほぼ決まっていて、気の合うもの同士でエエを組むことが多い。

 このようにエエにより労働交換することとは別に、田植えのときに金を払って人を雇うこともあった。それをソウトメといい、里の中でもとくに水田二毛作地で盛んにおこなわれていた。

 田植えが終えると、その日は家ごとにお祝いをする。オオタウエである。また、たんにシツケの祝いともいう。オオタウエには赤飯・ニシンの昆布巻き・アラレなどのごちそうを作り、田植えを手伝ってくれた人やソウトメに振る舞った。また、田植えが終わると、ノヤスミ(農休み)になる。ノヤスミの日は村全体で決められることが多かった。ノヤスミには、たんに田植えが終わったことを示すだけでなく、その村の農家の春の仕事の締めくくりの意味があった。


写真1-42 田植え(川中島地区 昭和35年) 小林昇提供