昭和の初めごろまでは、籾のまま俵詰めすることが多かった。籾の場合、一俵に入れられる量は五斗・五斗三升・五斗五升とさまざまであった。江戸時代以来の遺風としてその容量が決まっていたとするところも多い。たとえば、江戸時代に上田藩領であったところは一俵が五斗五升であるのにたいして、松代藩であったところは五斗であったという。
俵詰め
昭和の初めごろまでは、籾のまま俵詰めすることが多かった。籾の場合、一俵に入れられる量は五斗・五斗三升・五斗五升とさまざまであった。江戸時代以来の遺風としてその容量が決まっていたとするところも多い。たとえば、江戸時代に上田藩領であったところは一俵が五斗五升であるのにたいして、松代藩であったところは五斗であったという。