山におけるもうひとつのなりわいの特徴は、里に比べると貨幣経済が比較的早くから浸透していたことにある。
農家の現金収入源として、明治になってから養蚕が盛んにおこなわれるようになったが、昭和初期の養蚕不況を境にりんご栽培が急速に普及する。また、戦後はりんごに加え、葉たばこやホップの栽培もおこなわれるようになった。
換金のための営業は、養蚕やりんご栽培が本格化する以前から顕著であった。麻や楮(こうぞ)のように、明らかに売ることを目的とした作物を栽培し、町へは奥山などに比べるとはるかに近いという利点を生かして、薪や炭を生産し出荷してきた。『長野県町村誌』によると、明治前期にはすでに数多くの商品作物が作られ、穀類や野菜などの自給的なもの以外は、そのほとんどが長野などの町場へ出荷することを目的とする産物であった。