漁撈

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漁撈は山に限らず里でもおこなわれた。里では、千曲川や犀川など自然の大河川のほかに、扇状地を流れる上中堰などの人工の用水路においてもおこなわれた。

 数は少ないが、大河川沿いには専門の川漁師が生活していた。そうした人たちは、ツケバ(付け場)を作ったり、また投網・地曳網(じびきあみ)といった網類を用いたり、ツヅ・オケ・ハコブセとよぶ各種のウケを川や用水路に仕掛けて魚を捕った。


写真1-48 投網(屋島橋下流 平成8年)

 かつて鮭(さけ)・鱒(ます)が川をさかのぼってきたころは、ヤナ(簗)を川に掛けてそうした魚を捕った。四ッ屋(川中島町)では、犀川でおこなうヤナをサケガワとマスガワに区別していた。サケガワでは三、四月に鮭を捕り、マスガワでは九月に鱒を捕った。

 また、こうした川漁師がおこなう漁とは別に、水田地帯では、水田や用水路にウケを仕掛けて、どじょうやふなを捕ったりたにしを拾ったりすることも、ごく当たり前におこなわれていた。こうした漁は農家が自給的におこなうものであった。

 また、長野では水田養魚が昭和の初期ころまでおこなわれていた。田植えが終わるころになると、松代やまた遠くは佐久地方から、コイゴ(鯉子)売りの行商人がやってきた。各農家では、そうした行商人から鯉(こい)の稚魚を買っては自分の田に放した。餌をあたえることはなく、多くの場合ほったらかしである。そうしてひと夏、田で過ごしたあと、稲刈り前の落とし水の機会を利用して収穫する。収穫した鯉の多くは自家で食べてしまうが、なかには池などに移して、もう一、二年さらに大きくすることもあった。また、収穫の時期になると、成長した鯉を買いあつめる業者もあり、そこに売れば多少なりとも現金収入になった。こうした水田養魚は山間地でもよくおこなわれた。