地理的に広大な範囲をもつ現在の長野市は、明治二十二年(一八八九)施行の町村を基本とするなら、おおむね長野町など四一ヵ町村が合併してできているといえる。現在の市域にいたるまでの流れは、合併や編入など複雑な推移をたどっているが、市域を大きく区分する単位としては、この明治二十二年の町村の区分が存在する。これは現在では、おもに市の行政機構のなかで機能している区分であり、日々の暮らしのなかでは、この下位にある地域区分が重要な役割を果たしている。
それは明治時代におこなわれた町村合併以前の、いわば江戸時代の村や町の範囲であり、その数は一三〇町村にもおよんでいる。これが現在の区や町内をとらえるときの基本的な単位であり、実際にはこの町村が区となったり、あるいはこの町村のなかに複数の区や町内がかたちづくられているのである。
たとえば、市域の東北端に位置する田子(たこ)(若槻)は、明治二十二年(一八八九)四月一目に檀田(まゆみだ)、稲田、徳間、上野(うわの)・吉(よし)の各村および東条村・西条村の一部と合併して若槻村となり、昭和二十九年(一九五四)四月一日にいたって長野市に編入されたが、現在も田子が大字となり、この範囲が区となっている。そして、旧若槻村の各区の区長・副区長によって区長会が組織され、互選によって会長が決められている。このように田子では、江戸時代の村が大字となり区にもなり、明治時代の村が区の連合を組織する基盤になっているのである。
ひとくちに西山といわれる地域の、飯綱山の山麓(さんろく)にある広瀬は、江戸時代の村でいえば周辺の上ヶ屋・入山(いりやま)・鑪(たたら)・桜・泉平・富田の六ヵ村と明治二十二年に合併して芋井村となり、それぞれの旧村は大字となった。広瀬は一つの大字となったのだが、ここには広瀬、洞(ほら)、新屋(あらや)、百舌原(もずはら)、扇平(おうぎひら)、沢浦の六集落が山麓に離れて立地し、それぞれが区となって区長が選任されている。そして、六集落の区長のなかから大字広瀬の大区長一人と会計をつとめる小区長一人を選んで、この二人が芋井地区の理事区長となり、各旧村の理事区長のなかから芋井の連合区長、副連合区長が選ばれている。つまり、ここでは集落が山麓に散在しているため、各集落が区としての自律性をもち、それをまとめて大字と旧村の領域が機能しているのである。
また、松代は江戸時代以降、昭和二十六年まで松代町として一つの自治体だったが、現在は清須(きよす)町・馬喰(ばくろう)町・紙屋町・竹山町・有楽(うら)町が松代第四区、殿(との)町が第五区、紺屋町・馬場町・代官町が第六区、表柴(おもてしば)町が第七区、伊勢町が第八区、中町・荒神(こうじん)町・下田(しもた)町が第九区、肴(さかな)町・鍛冶(かじ)町が第一〇区、松山町・御安(ごあん)町が第一一区、田町が第一二区といったように、江戸時代からの一町内が一つの区、あるいは複数町内で一つの区を構成している。松代町では、現在もかつての侍町と町人町が別々の鎮守社をまつるなど、近世社会のあり方が一部には継承されながら現在にいたっているのが特色だが、自律性をもった地域社会として町内があり、これらが単独または複数で区となって行政機構に組みこまれているといえる。